「死」は種の生存と他者の「生」のためにある

『遺伝子の夢』 帯に(利他的な遺伝子)と書いてある。ドーキンスの『利己的な遺伝子』はよく売れた本であるが、そのパクリか?と思って読み始めたが・・・。「人間は遺伝子を運ぶ舟である」という意味においては同じことを主張している。

細胞の生と死が個体の生を保証する

細胞はアポトーシス(自死)の機能が遺伝子に組み込まれているといわれている。自分の存在が不要になった場合に、自ら判断して自殺するのである。よく例に出されるのが、オタマジャクシのしっぽ、蛙になるために、しっぽの細胞は自分自身で「自殺」して、しっぽが消えてしまうのだが、子供の頃からそれが不思議でならなかった。「消える」というのがどのようなことなのか。トカゲのしっぽのようにすっぱりと切れてしまうのだろうか。実際は細胞が自分で分解して、その細胞を構成していた成分は尿として排出される。

再生系の細胞のアポトーシスはよく知られているが、著者の田沼靖一は非再生系(神経細胞・心臓の細胞・脳細胞など)の細胞死を「アポビオーシス」と名付けている。

細胞の死はなぜあるのか、個体の死とは何かを問うことによって、死の生物学から「生の意味」を問い直し、人間とは何か、自分とは何かという哲学的問題に対して生物学からのアプローチを試みている。

不要になった細胞が自死するから、個体の命が保てるのである。(これはアポトーシスを忘れたがん細胞を見れば明らかである)免疫系においても、胸腺で自己反応性(自分自身を攻撃する)をもった免疫細胞を除去する仕組みがある。ウィルスが入ってきた。白血球が大動員されて戦闘開始、悪いウィルスをやっつけた。万歳である。その後は闘って不要になった白血球は消滅してもらわなければならないのである。いつまでもいては逆に困ることになる。

細胞の生成と死、この不断の流転の中にこそ、個体としての生が保証されているのである。

種が生き延びるためには、個体の死が必要

有性生殖をおこなう多細胞生物が存続するには、生殖相手を含むその種が存続していかねばならず、環境が変化しても生きのびるためには遺伝子の構成を変えて、新しい環境に適用するしかない。従って多くのバリエーションをもった遺伝子をあらかじめ作っておき、新しい環境に適用できる個体が生きのびるようにするのである。(ダーウィンの進化論)

このとき、古い遺伝子をもった個体がいつまでも生きていては都合が悪いのである。新しい環境に適応できる遺伝子と、古い遺伝子が有性生殖によって混じっては困るのである。したがって、生物の個体が永遠の命をもつことは、その種が生きのびる上では誠に都合が悪いということになる。だから生物には寿命があり、いつかは死ななければならないことになったのだろう。

二重の細胞死、アポトーシスとアポビオーシスは、多細胞生物が進化の過程で獲得した「生」のための戦略であり、死によって生を更新することがもっとも合理的な”種としての”生の手段なのである。

つまり、「死」は自分以外の「生」のために存在しているのである。ヒトは「死」という究極において、他人のために生きることを運命づけられているのである。

ヒトは、自分の子孫ばかりでなく他者も、そしてすべての生物の生命を救うことを目的として生きることが本来の姿であることを、死の遺伝子は語っているのではないだろうか

私たちは生物学の発展によって、このような認識を”科学的”にもつことができる時代に生きているのであるが、何のことはない、いにしえの賢者は、生の本質、人の生きる意味を、真理を掴んでいるのである。

遺伝子を知るはずもなかった荘子が、死生観において我々の先にいるのである。

夫大塊載我以形
労我以生
佚我以老
息我以死
故善吾生者
乃所以善吾死也
(荘子 内篇 死生命也)

—–

「夫れ大塊我を乗するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を佚にするに老を以てし、我を息わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり」

—–

そもそも自然とは、我々を大地の上にのせるために肉体を与え、我々を労働させるために生を与え、我々を安楽にするにために老年をもたらし、我々を休息させるために死をもたらすものである。(生と死は、このように一続きのもの)だから、自分の生を善しと認めることは、つまりは、自分の死をも善しとしたことになるのである。(生と死との分別にとらわれて死を厭うのは、正しくない)   岩波文庫 荘子第一冊  金谷治訳注 184ページ

メメント・モリ(死を想え)は「他者の死を想え」ということかもしれない。生と死は断続したものではなく、分けることはできないのであり、死を忌み嫌い恐れることは道理に合わないのである。(道元も同じことを言っている「彼岸花と道元の死生観」)

がん患者であるからこそ、死を想い(メメント・モリ)、他者を想い、死と分かちがたい今日一日の生を充実することができるのである。


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