人は死んでも、宇宙の全エネルギーは一定だ。
「アミターバ」とは「阿弥陀如来」の梵語表記です。無限の寿命を持つことから無量寿如来ともいいます。限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされており、西方極楽浄土の教主です。
玄侑宗久さん自身がこの本を次のように評しています。
死の瞬間、私は発光体になって輝く世界に入った。そして……。
死を恐れるすべての人のための究極の物語。末期ガンに侵された母。死の影を間近に感じつつも努めて明るく振舞おうとする母を、献身的に看病する娘小夜子と夫の僧慈雲。 魂は不滅なのか。
はたして、人間の魂はどこに向かうのか。
死の瞬間、そしてその後の世界を描く、究極の生の物語。「アミターバ。つまり無量の光。あるいはアミターユス。阿弥陀さんですよ。
いいですかお母さん、極楽浄土ってのは、なにか私らには計り知れない存在の意志や思いが実現してる場所らしいんですよ。それを疑わないことです」。
がんで闘病する、僧慈雲の義母の最期の三ヵ月、死の瞬間とその後を圧倒的な迫力で描いています。
本書によって死の恐怖や悲しみから癒される読者が多い事でしょう。
人は死が近づくにつれて、意識があの世に逝ったり還ってきたりするという。そしてトンネルの向こうにまばゆい光が現れて、その光の中に入っていくことに無量の喜びを感じるようになる。
「死」とは忌み嫌うものではなく、むしろ此の世に呼び戻されることが苦痛と感じるほどの幸福感に満たされた状態なのです。
がんになった慈雲さんが義母に、あるときエネルギーの話をするのです。
慈雲さん、僧侶でありながら物理学にも詳しいらしい。(玄侑宗久自身は、東日本大震災のとき、原発について学び、たくさん発信しています)「原子」や「クオーク」、はてはこの自然界の究極の単位は「ひも」であると、超ひも理論まで持ち出してきます。
宇宙の総エネルギーは一定だから、人が死ぬ瞬間にからだの1gが全部エネルギーに変わったとしたら、「10の14乗ジュール」という熱エネルギーになる。
25メートルプールの529杯分が瞬時に沸騰する熱量である。ま、これはアインシュタインの有名な式 E=mC2 から導かれるのですが、この膨大なエネルギーの大部分は使われずに残って、それが阿弥陀如来という力に集約され、アミターバという浄土、無量光明土を現出させているのではないか、と解釈してみせます。
人は死んでも宇宙の全エネルギーは一定であり、存在の仕方を変えるだけのことだというのでしょう。
しかし、魂はどうなるのか。魂は物質ではないから当然質量はありません。となるとエネルギーも持っていません。
もともと何もない「無」からわたしたちは突然「生」を受けたのであり(エネルギーの形の変換)、死んだらそれがまた別のエネルギーに変わって、この宇宙のどこかに存在するのです。死んでも何も無くなりはしないのです。
以前に三春の滝桜に行った後、そ侑さんが住職を務める福聚寺(ふくじゅうじ)の枝垂れ桜を見物しました。
みごとな桜でしよね。