百歳まで生きることに決めて、神様にお委せする

ルルドの聖母マリア

白石一文氏の長編小説『神秘』も、主人公は末期の膵臓がん患者である。この小説には、膵臓がんが治るための秘訣が随所にちりばめられている(ように思うのだ)。

主人公は末期の膵臓がん患者

神秘(上) (講談社文庫)

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白石 一文
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53歳の出版社役員である菊池は、突然末期の膵臓がんで余命1年という宣告を突きつけられる。CTや腫瘍マーカーの結果からは、肝臓、胆嚢、骨への浸潤、転移もたぶん始まっているのだろう。

雑誌の編集を通じてがんには詳しい菊池は、「ここまで大きくなっていると有効な治療法は何一つない」。だったら「慌てて細胞診なんてやらなくても良いではないか」と友人の医者に告げる。

診断を確定したところでやるべきこともないわけで、症状が進んで痛みが出てきたら緩和医療を考えれば良い、と冷静に判断するのである。つまり、抗がん剤や放射線による治療ではなく、無治療を選択する。がんの多段階発生説に対して批判的に書かれ、近藤理論を肯定しているかのようである。

しかし、私も同じ状況だったら菊池と同じ決断をしただろう。転移したら無治療を選択するそのつもりでいたことも事実だ。抗がん剤の副作用による生活の質(QOL)の低下と得られるわずかの余命の延長とを秤にかければ、菊池の選択も合理的であろう。

心と直感に素直に従い、勇気を持って行動する

ちょうどアップルのスチーブ・ジョブズが死亡したという記事にも接し、名演説として喧伝されたジョブズのスピーチを『「死」は「生」が作り出す最高の発明品――などという氏の認識は完全な誤り』『「夢の追求」という凡庸で手垢のついた処世訓』と酷評するが、『最も重要なことは、自分自身の心と直感に素直に従い、勇気を持って行動することです。

心や直感こそが、君たちが本当に望んでいることを知っているのです』との言葉を書き留め、それに従って20年前にたった一度だけ電話で話したことのある山下やよいという女性<超能力を秘めていそうな>を探すために神戸に移り住むことを決心する。

膵臓がんで亡くなった作家も何人かいる。中島梓の『転移』や吉村昭の闘病を記した妻、津村節子の『紅梅』などあるが、実際に膵臓がんになった作家よりも、この著者の方がより詳細な心理描写ができているように思う。当の病人よりは病状も客観的に見つめることができるということなのだろう。

物語は偶然の出会いが折り重なって、思いもよらぬ事実が明らかになっていく過程はスリリングである。そして最後には・・・。

奇跡的治癒とは

第二部の随所でバーニー・シーゲルの『奇跡的治癒とはなにか―外科医が学んだ生還者たちの難病克服の秘訣』の一節が紹介されている。菊池はシーゲルのことを私の「ドクター」と呼び、自分の膵臓がんが奇跡的に治癒することを期待している。シーゲルの本は、このブログでも何度か紹介してきたものである。

菊池が書き留めたシーゲルの言葉は次のようなものだった。

たとえ多くの患者が、「あと、どのくらい生きられますか?」「もうあと、どのくらいありますか?」としつこく訊いても、答えるべきではない。こういう患者は、自分の寿命を自分で決めようとしないで、他人に決めてもらおうとする受身な患者で、医者に好意を持っている場合、まるで医者の正しさを証明するかのように、その予告通りに死ぬ人が多い。

医者は患者より論理的で統計に重点を置き、融通がきかなくて希望を失いがちだ。医者は治療法がなくなると、放り出したくなる。しかし患者の治癒力を信じないと、その治癒力も十分に力を発揮できないことを、しっかりと認識しなければならない。「これ以上、手の尽くしようがありません」は、医者の口にすべき言葉ではない。常に打つべき手はあるのだ。それがたとえ、座って話すだけであっても、患者に希望と祈りをもたらすことができるのだから。

がん患者の15から20パーセントは、意識するしないにかかわらず、死を願望している。

扱いにくくて協力的でない患者が、もっとも回復する可能性が高いことを、医師は認識すべきである。

重症の乳がん患者のうち、抑うつ、苦悩、敵意などの感情を強く打ち出す患者の方が、うつ状態をほとんど見せない患者よりも長生きする。

攻撃的ないわゆる「悪い」患者のほうが、素直な、いわゆる「良い」患者よりT細胞の量が多い。

「百歳まで生きたいか?」という問いに「もしも」、「それでも」、「でも」などと言わずに、即座に心底から「ハイ」と言えたら、あなたはきっと「例外的患者」になれる。

医者の中には「間違った希望」にまどわされるから、私に近づくな、という者も何人かいる。病気とつきあう上で、患者の心に「偽りの希望」などは存在しない、と私は言う。希望は統計などではなく生理的なものだ!

偽りの希望とか客観的な心配といった概念は医学用語から抹殺されるべきだ。それらの言葉は、医者も患者も駄目にする。

「偽りの希望」とは、医者が患者に統計が示すとおりになる必要はない、というだけのことなのだ。ある病で十人のうち九人が死ぬとして、十人が十人とも死ぬだろう、と言わなければ「偽りの希望」を広めていることになるというのか。

私の言いたいのは、誰もがその生き残りのひとりになれる、ということだ。患者の心の中では、希望は全て現実のことだから。

私が「大丈夫。死にやしませんよ。」と言っただけで、今日を生きている人たちもいる。

つまり、広い視野に立って自分の体の問題を見つめることだ。病気の回復だけが目的ではない。それよりももっと大切なことは、怖がらずに生き抜いて平和な生活をして究極の死をむかえることだ。そうすれば治癒への道も開ける。そして、人は誤った強がりーー人はどんな病気も治せ、死ぬこともないというーーからも開放されるのだ。

百歳まで生きることに決めて、なにもかも神様にお委せする

しかし一方で「希望」を持つことは大切だが、それはえてして「執着」になりやすい。死の直前まで抗がん剤治療をやり続けるのもその現れだと言えはしないだろうか。菊池も『小さな希望は、ときとして人間を徹底的に消耗させ、絶望させる。

その点では、たすかるすべが何一つないという、この末期膵臓がんという病気はありがたいと言えばありがたい。』と述懐する。治ろうとする執着が、治らなくすることもある。

菊池も、シーゲルの経験した膵臓がんの奇跡的治癒例としてこのように紹介している。

私は最近になって、ドクター(シーゲルのこと)が書いている次の一節の本当の意味が少しだけ分かったような気がしている。というより、この一節の意味を心底理解できれば、自分のがんを完全に克服できることに気づいた、と言うべきかもしれない。

それは次の一節である。

もはや何の治療にも反応しなくなった末期の膵臓がん患者、フィリスは、家に帰って死を待つばかりだった。数ヶ月後、彼女は診察室に現われ、私の同僚の医師が診察した。彼は診察室のドアを開けて私を呼んだ。「バーニー、ちょっときてみたまえ」

私が入っていくと彼は言った。「がんが消えたんだよ」

「フィリス、いったいどうしたの?」と私は訊いた。

「先生ならおわかりでしょう」

「そりゃあ、わかっていますよ。しかし他の人にも教えてやりたいからね。」

フィリスは答えた。「私は百歳まで生きることに決めて、なにもかも神様にお委せしたんです」

この本はここで終わりにしてもいいくらいだ。この心の平和こそが何ものをも癒す力となるからである。

このブログの記事も終わりにしてもいいくらいだ。


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百歳まで生きることに決めて、神様にお委せする” に対して2件のコメントがあります。

  1. キノシタ より:

    金魚さん。
    がんばっていられるのですね。
    腫瘍が縮小し、あわよくば消えて欲しいとがん患者なら誰でも望むのですが、こればかりは天の采配に従うのみ。
    焦らず、たゆまずに闘って欲しいと思います。

  2. 金魚 より:

    キノシタさま
    漢方を調整して、肝機能がやや落ち着き6クール目を無事実施できました。
    告知(というか自分で大腸カメラの画像でわかり)された時、手術しなければステージが明確にならないので、とにかく手術は急ぎましたが、遠隔転移がある場合化学療法をどうするか?
    しないという選択もよぎりました。
    しかし、高齢の母がいることや、化学療法は治癒のためだけでなく、症状緩和のためにも実施するメリットがあること、大腸癌では比較的転移部の手術も有効であることなどから、ゆっくり考えようと思いました。
    ひとつ思ったのは、希望というか戦う意思が自分は薄いということ
    今は大分考えていますが、ご紹介の書籍など読み進めながら、まずは12クール完遂を目指します。
    三連休遠く長崎の友人を含め、友人達が来てくれ、海の日にはうに丼などを食べに出かけました。
    こういう小さな楽しみを実現するという目的も、クールの励みになります。
    完遂率7割の化学療法なので、今は目前の目標に頑張りたいと思います。

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