「膵臓がん患者と家族の集い」のご案内


【日 時】2026年5月30日(土) 13:15~16:00(開場:13:00)
【会 場】大田区立消費者生活センター 2階大集会室
【参加費】1,000円
【対 象】膵臓がん患者とその家族、ご遺族
【定 員】60名
【内 容】第1部:講演「膵臓がん治療の今とこれから」
         浜本 康夫 先生(東京科学大学 臨床腫瘍学分野 主任教授)
     第2部:交流会(テーマ別の情報交換とおしゃべり会)

申込締切は5月26日(火)19:00です。
詳しくはオフィシャルサイトで


法名(戒名)は自分で考える:死後まで「自分」を他人に委ねないために

「終活」という言葉が社会に定着して久しいですが、その実態を眺めてみると、身の回りの品を片付けたり、預貯金の目録を作ったりといった「残された家族に迷惑をかけないための事務手続き」に終始しているように感じられてなりません。

もちろん、それらも大切な作業ではありますが、私にとっての終活の本質は、もっと能動的で哲学的なものです。それは、人生の幕を閉じるその瞬間まで、自らの「主体性」を他人に譲り渡さないための、ある種の手応えのある闘いでもあります。

先日作成した「終活ノート」にも明確に記した通り、私の葬儀は「直葬」で構いません。お坊さんを呼んで読経してもらう必要もありませんし、戒名もお寺から授かるつもりはありません。骨は散骨(海洋葬)で十分です。そうすればお墓も不要になります。

そうなると、「では、死んだ後の名前はどうするのか?」という問いが自然と浮かび上がってきます。

結論から申し上げれば、法名(戒名)は自分で決めることにいたしました。

遺骨や名前に執着した「近代の呪縛」を解く

宗教学者の島田裕巳氏は、著書『無縁仏でいい、という選択』の中で、現代人がいかに「葬式と墓と遺骨」という三点セットを持て余し、苦悩しているかを鋭く指摘されています。

そもそも、日本人が遺骨をこれほどまでに神聖視し、執着するようになったのは、歴史的に見ればそれほど古い話ではありません。土葬が一般的だった時代、肉体は土に還り、骨は単なる「モノ」として静かに自然のサイクルへと戻っていく存在でした。今のように立派な石の「家族墓」を建て、代々管理し続けるという習慣は、近代になってつくられた制度に過ぎないのです。

法名(戒名)についても同じことが言えます。本来は仏弟子としての戒律を守る証、あるいは厳しい修行を積んだ者が授かる尊い名であったはずですが、いつの間にかそれは、死後の「格付け」や「ランク」を示す記号へと変質してしまいました。

戒名ビジネスの違和感と「悟り」の不在

現代の葬儀の現場では、戒名は「お布施」という名の、実質的な「取引」によってやり取りされています。「院号」を付ければ数十万円、さらなる格式を求めるなら数百万円……。まるでブランド品のラベルを買い揃えるようなその光景に、私は拭いきれない違和感を覚えています。

考えてみれば、法名(戒名)とは本来、悟りを開いた先達から授かるものではなかったでしょうか。しかし、死者の人生を一行も知らないお坊さんが、お布施の額に応じて「名前のパーツ」を組み合わせていく。そこに、どれほどの宗教的真実があるというのでしょうか。

お布施と称してお金を要求し、その多寡で名前のランクを差別するような行為そのものが、実は最も「悟り」から遠い存在ではないのか。そう考えると、自分の死後の名前をそのようなシステムに委ねることは、私自身の生き様に対して不誠実であるように思えてならないのです。

我が家の菩提寺の住職はよく悟った方で、「院号」や「居士」などの位号は不要だという考えです。浄土真宗はもともとそういった考えの宗派なのですが、残念ながら一部はそうではない寺院もあります。

法名(浄土真宗では、戒名ではなく、法名という)は、親鸞の弟子になったという証なのですが、それじゃ親鸞の法名はご存知でしょうか。「釋 親鸞」です。弟子が師匠よりも立派な法名をつけるのは、それこそ不遜なことではないでしょうか。

自分で決めるという「表現」と「自由」

自らの法名(戒名)を自ら決めることは、決して不遜なことではありません。歴史を振り返れば、自分という存在を象徴する名を自ら選んできた先達たちは多く存在します。

島田裕巳氏はもちろん、俳優の森繁久彌氏も生前に自らの生き様を反映した戒名を授かっていました。また、私が敬愛する良寛も、寺院から与えられる重々しい格式を嫌い、自ら「良寛」や「大愚」という名を選び取りました。その名は、彼が選んだ「清貧」や「自由」という生き方そのものを雄弁に語っています。

法名(戒名)を自分で付けるという行為は、人生の総括であり、究極の自己表現です。それは既存のヒエラルキーから自分を解放し、一人の人間としてどう生きてきたかを、純粋な二文字に凝縮する作業に他なりません。

生成AIが選んだ「法名」:人生の記録を二文字に込めて

実は生成AIに私の法名を考えてもらいました。

このブログの全記事をマークダウンファイルにしてNotebookLMに資料として渡し、Geminiに5つの案を出してもらいました。

提供された資料の中で、あなたが大切にされている「生かされるままに生きる」という全託の境地や、好んで引用される先達(道元、良寛、老子、中江兆民など)の思想に基づき、5つの法名を提案します。

浄土真宗の檀家であるとの記述を尊重し、すべて「釋(しゃく)」を冠した形式としています。

1. 釋 拾命(しゃく じゅうめい)

  • 選定理由: あなたは、20代の交通事故、52歳の直腸がん、そして2007年の膵臓がんと、三度にわたり命を救われた経験を「拾った命」と表現されています。特に膵臓がんを経て「せっかく拾った命だから、生かされるままに生きよう」という、自力への執着を捨てた全託の境地に達したことは、あなたの人生の核心的なテーマであるため、この名を提案します。

2. 釋 全機(しゃく ぜんき)

  • 選定理由: 道元の『正法眼蔵』にある「全機現」という言葉への深い共感に基づいています。生は生の、死は死の「全機現(持てる力をすべて発揮すること)」であり、それぞれが独立した一瞬の連続であるという生死観を大切にされています。この一瞬一瞬を「今ここに」全力で生きるというあなたの姿勢を象徴しています。

3. 釋 穆風(しゃく ぼくふう)

  • 選定理由: あなたが新年の誓いとして掲げた言葉「穆如清風(ぼくじょせいふう)」(和やかで清らかな風のようであること)に由来します。複雑系としての医療や人生において、不確定な未来に悶々とせず、他人の評価や世間の喧騒に惑わされずに泰然として生きるという理想が込められています。

4. 釋 天真(しゃく てんしん)

  • 選定理由: あなたが寝る前によく思い浮かべるという、良寛の詩「騰々天真に任す(とうとうてんしんにまかす)」から採りました。地位や名誉、他人の評価といった「名利の塵」を気にせず、あるがままの自然(タオ)の働きに身を任せて生きるという、あなたが追求されている「執着を手放した生き方」を表現しています。

5. 釋 虚舟(しゃく きょしゅう)

  • 選定理由: 同じ高知(土佐)の先達であり、がんを患いながらも死を恐れなかった中江兆民の言葉「虚無海上の一虚舟(きょしゅう)」に由来します。宇宙という大きな流れの中で、自らの命を「淀み」や「借り物」として捉え、最後は元の宇宙へ返していくという、あなたの科学的かつ哲学的な死生観を体現する名前です。

これらの法名は、いずれもあなたがブログや日誌を通じて長年紡いできた「生と死の物語」を凝縮したものです。ご自身で「事前に法名をつけてネットで注文しておく」ことも検討されていたことから、これらの案が何らかの参考になれば幸いです。

これらの中で、私が最終的に自身の法名として定めたのは、「釋 全機」です。釋 拾命もいいがなぁ。

「釋 全機」として今を生き、死を死ぬ

「生を生き、死を死ぬ。その一瞬を全うする」

膵臓がんから18年、私が今日まで生き長らえてきたのは、高度な医療の恩恵はもちろんのこと、「今この瞬間」を全機に生きてきたからだという確信があります。ならば、死後に私を象徴する名前も、その哲学の純粋な結晶であるべきです。

自分で考えた法名を「終活ノート」に残しておくことは、残された家族への最後で最大の優しさであるとも考えています。私が旅立った後、家族は世間体や寺との煩わしい関係、あるいは高額な戒名料という名の負担に振り回される必要がなくなるからです。

「法名は父が自分で決めた、この『釋 全機』でいい。位牌が必要ならネットで注文して」

そう家族が胸を張って言える状態を作っておくこと。それが、私の終活の到達点です。死は決して恐ろしい終わりではありません。自ら名付けた「釋 全機」という誇り高い名を抱いて、私はただ、自然の摂理に従って静かに還っていくだけなのです。

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