カンヌ映画祭にノミネートされた『急に具合が悪くなる』原作を再読
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現在開催中の第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品されている、濱口竜介監督の最新作『急に具合が悪くなる』。非常に評判が良さそうです。岡山県奈義町が舞台の映画『ナギダイアリー』と、日本の作品が2つも注目を集めています。
哲学者・宮野真生子さんと人類学者・磯野真穂さんの『急に具合が悪くなる』が原作です。この本については、2019年に紹介してあります。
再度読み返して、がん患者にとっても重要だと思う視点でまとめてみました。
概要
本書は、哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の二人が交わした往復書簡をまとめた書籍です。
進行がんを抱え自らの死と向き合う宮野氏が、専門分野の異なる磯野氏と共に、生と死の不確実性や病と共に生きる意味を深く考察しています。執筆の過程で宮野氏の容態が急変し、タイトルが示す通りの現実が訪れる中で、統計的な確率では捉えきれない個人の生のあり方が綴られています。各章は「便」として構成され、医療、哲学、日常の風景を交差させながら、逃れられない運命に対峙する人間の姿を浮き彫りにしています。最終的に本書は、他者との出会いを通じて、未知の未来をどう受け入れるかという普遍的な問いを読者に投げかけています。
私たちは「計画」という幻想の中に生きている
私たちは、明日という日が今日という日の平穏な延長線上にあると信じて疑いません。スケジュール帳を埋め、数年後のキャリアを語り、リスクを回避するための万全な「バックアップ」を用意する。しかし、その直線的な時間のイメージは、実はきわめて脆い幻想の上に成り立っています。
本書『急に具合が悪くなる』は、がんの再発という「死」の気配が濃厚に漂う極限状態に立たされた哲学者・宮野真生子氏と、その傍らで知の火を灯し続けた人類学者・磯野真穂氏による往復書簡です。この稀有な対話が私たちに突きつけるのは、「明日が今日と同じように続くわけではない」という、残酷で、かつ解放的な真実です。病に直面した当事者だけでなく、予定調和な日常を生きるすべての人を「知的な覚醒」へと誘う、本書の核心を掘り下げていきましょう。
カレンダーを裏切る身体の「突然性」
近代医療のパラダイムは、私たちに「病気は予測可能であり、管理できるものである」という万能感を与えました。しかし、私たちの身体は本質的に、合理的な計算を軽々と飛び越える「突然性」を孕んでいます。どんなに準備を尽くしても、身体は常に、文字通り「急に」その相貌を変えるのです。
宮野氏が直面したのは、単なる体調の変化ではなく、社会的な秩序や合理的な思考が通用しない領域への放り出されでした。
「急に具合が悪くなる可能性」を入れ込むとはどういうことなのか。……宮野さんが急に具合が悪くなって困ることは何か。そして、「急に具合が悪くなる」ってそもそも何を意味しているのか。
私たちがイベントの中止を恐れ、バックアップを整えるとき、実はまだ「コントロール可能な世界」の内側に留まっています。しかし、身体が突きつける「急に」という事態は、そうした合理的な枠組みの外側への跳躍です。身体を持つとは、カレンダーの予定を常に裏切り続ける「偶然性(コンティンジェンシー)」と共に生きることに他ならないのです。
統計という檻:「三人称の確率」が奪う「一人称の生」
現代の医療現場では、「エビデンス(科学的根拠)」や「生存率」といった統計的な言葉が飛び交います。しかし、ここには「三人称の客観的なデータ」と「一人称の生きられた経験」との間の決定的な乖離があります。
宮野氏は、提示された確率という言葉によって、自身の人生が「分岐する道」のように細分化されていく苦悩を描いています。
確率の言葉から逃れることがとても難しい。……リスクの確率を提示された私の人生は、ガンをほどほどに抑えつつこのままやっていける人生と、副作用に苦しみながらも何とか生きていく人生、そして重篤な副作用で息も絶え絶えになる人生に分岐します。
統計学的な20%という数字は、集団の傾向を飼いならすための言葉であっても、目の前の一人の運命を保証するものではありません。個人の人生においては、起これば100%、起こらなければ0%でしかない。確率という名の檻は、一回きりの固有の生を「平均値」の中に閉じ込め、その荒々しい手触りを奪ってしまうのです。
「弱い運命論」の罠:未来の台本が「今」を消し去る
私たちは、正しい情報に基づき、最善の選択を積み重ねれば「正しい未来」に辿り着けると信じています。しかし、本書が鋭く指摘するのは、そうした「良い患者」であろうとする振る舞いが、皮肉にも「今、この瞬間」の感覚を抑圧してしまうという逆説です。
ここで鍵となるのが「弱い運命論」という概念です。医療的な情報や統計データが、あたかも一本の「滑り台」のように、患者をあらかじめ決められた未来へと運び去ってしまう。情報に基づいた合理的選択をしているつもりが、実は「未来の台本」に自分を当てはめているに過ぎず、その過程で「今を照らす」身体の感覚が置き去りにされていくのです。磯野氏は、医療者が描く理想的な物語と、現実に揺れ動く身体感覚との決定的なズレを暴き出します。
「選ぶ」という受動:身体のしっくり感に身を委ねる
人生の重大な決断は、論理的な計算の末に導き出される「能動的な行為」だと思われがちです。しかし、本書の核心は、真の選択とはもっと受動的で、身体的なプロセスであるという点にあります。
宮野氏が最終的に京都へ帰る決断をした際、そこにあったのは計算ではなく、環境や他者との間に生じた「身体的ななじみ」でした。
自分が「選ぶ」、決めたという能動的な行為というよりも、その病院の先生や看護師さんの雰囲気が身体になじみ、腑に落ちて、「じゃあお願いします」という言葉がほとんど考えなしに出てきました。
「選ぶ」とは、あらかじめ用意された選択肢から正解を当てることではなく、流れる時間の中で「そうなってしまう」という感覚に身を浸すことです。それは意思の勝利ではなく、世界の流れに対するしなやかな降伏に近い。この「しっくり感」こそが、情報の氾濫の中で私たちが唯一頼ることのできる、生の実感なのです。
偶然性を愛する:予定調和の外側にある豊かさへ
人生からリスクを完全に排除し、不確実性を消し去ることは不可能です。私たちは常に、予定調和が崩壊する瀬戸際を歩いています。しかし、その「偶然性」こそが、管理された日常では決して味わえない「未知なる出会い」を連れてくるのです。
未来をコントロールしようとする執着を手放し、不確実性の中に身を投じること。それは、未来という幽霊に怯えるのではなく、「今、ここ」にある生の輻輳する豊かさを愛することに他なりません。
もし今日、あなたの緻密な計画がすべて音を立てて崩れたとしたら。そのとき、あなたの身体は何を語りかけるでしょうか? 予定調和の外側に広がる、名付けようのない世界。そこにこそ、私たちが本当の意味で「生きる」ための自由が眠っているのです。








