サイトアイコン 残る桜も 散る桜ー膵臓がん完治の記録

平和の俳句

今日はがん研で甲状腺の診察でした。前回の超音波検査の結果を受けて頭頸科の先生の診察です。

先生「超音波の結果からは良性(嚢胞)だと思われます。しかし、念のために細胞診をしておきましょうか」
私「嚢胞の中にあるしこりは、最悪の場合でも乳頭がんと考えて良いのでしょうか?濾胞がんや髄様がんの可能性は低いと?」
先生「ま、そういうことですね。それを確認するためにも細胞診をやりましょう」

ということで、来週に細胞診、再来週に最終結果ということになりました。


本日の東京新聞・中日新聞などに、私がはじめて詠んだ俳句が掲載されました。

東京新聞の「平和の俳句」は、金子兜太氏といとうせいこう氏が選者となって、1月1日から、一日一句を一面に載せています。これまで俳句を詠んだこともなさそうな読者がたくさん応募して、平和について感じたこと、想いを表しています。

私も一句応募してあったところ、2週間ほど前に東京新聞の編集局から電話があり、8月の「平和の俳句 戦後70年特集」の掲載句に選ばれたからと、インタビューを受けました。新聞の俳句欄には初めて投稿したのですが、選ばれたことは素直に嬉しいです。

    享年弐拾壱歳 石ころ一つ 蝉時雨

墓地の移転をしたのは、術後1年経ったころでした。膵臓がんは再発したらあっという間ですから、元気なうちに墓地を移転しておかなければ、自分の骨が入った墓が遠くにあったのでは家族が困るだろうと。

かび臭い屍櫃(かろうと)の中には、父母の骨壺と先の太平洋戦争で戦死した叔父の骨壺がありました。骨壺の中に骨はなくて石ころだけ。戦死公報から書き写したのか、「昭和十九年十月没 享年弐拾壱歳」と書かれてありました。今でも骨はどこか南方の島に埋もれているのかもしれません。あるいは海のもずくとなってしまったのか。

私の父はインパール作戦の生き残りです。日本軍の戦死者の6割が餓死で亡くなっています。それ以外はマラリアなどの病気によるもので、実際の戦闘で亡くなった兵士は1割にも満たないのではないでしょうか。補給路を断たれた挙げ句の、軍指導部の無茶な作戦で犬死にしたのです。死ぬのはいつも貧乏人です。

戦時下になれば、がん患者や障害者は「役立たず」と非国民扱いになることは目に見えています。

平和でなければ、がん患者は満足な治療もできません。

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