サイトアイコン 残る桜も 散る桜ー膵臓がん完治の記録

メラトニンの副作用?

2ヶ月前からメラトニンを20mg(10×2)にして服用している。最近昼間に眠くて仕方がない日が多いのは、もしかしてメラトニンのせいかと思って、ここ数日服用を止めてみた。メラトニンは重篤な副作用は報告されていないとはいうが、20mgは、臨床試験など医者の管理のもとで服用する量には違いない。3、5,10mgと自分の身体と相談しながら徐々に量を増やしてきたのだが、どうやら20mgは私には多すぎるようだ。服薬を止めたら翌日からもとの調子に戻ってきた。やはりメラトニンの副作用だったようだ。人によれば悪夢にうなされると言うが、眠いという以外には気になる副作用はない。

昨夜は11時に寝たにもかかわらず、今朝は4時半に目が覚めた。これが健康なときの私の就寝スタイルだ。メラトニンは5か10mgに減量することにした。もう止めてもよいのかとも思うのだが、もしかしてそのせいで再発?ということはないかという考えが頭をよぎる。代替療法のすべてに言えることだろうが、いったん代替療法を始めると、止めることが難しくなる。病状が安定していれば「これが効いているのだろう」と思い、逆に悪化しても「止めればもっと悪くなるかもしれない」と考える。どちらを選ぶにしろ、それを補完してくれる科学的なデータはない。代替療法の罠だ。

高価なリンパ球を培養する免疫療法などでは、1クールで150万円から400万円も費用がかかる。仮に、これで延命効果があれば、どこで止めるか、どこまで経済的に耐えられるかが大きな問題になるだろう。幸か不幸か、この種の免疫療法では根治はあり得ないし、わずかな延命効果しかないから、延々と高額の治療費を払うことにはならない。あるリンパ球療法の病院で、「もうお金が続きません」といった患者に、その高名な医者が「生命保険を解約すればいいではないか」と言ったとか。こんな医者にかかったら最悪だ。

悪質な代替療法商法は、原価が1,000円のものを10万円にすれば、患者は「こんなに高いのだから、効果があるはずだ」と錯覚して、ありがたがってどんどん買ってくれる。しかし、5,000円にしたのでは売れない、とうそぶいている。根拠もなく高価な代替療法は、例外なくニセモノだと考えてまちがいない。その代替療法で命が助かりたいというのなら、10年、20年と経済的に続けることができるかどうかも考えておくべきだろう。とかく目先の「今の状態を何とかしたい」という気持ちは理解できるのだが、悪徳業者はそこにつけ込んでくる。その代替療法に効果があれば、「生きている間ずっと続けなければならないんだよ」ということを頭に置いておく必要がある。月100万でもまったく気にしないという裕福な人なら別だが、私なら月1万円以上を代替療法に支出するのは愚かなことだ。私の場合は、3ヶ月毎に個人輸入するマルチビタミンとメラトニンが12,000円ほど。ヤクルトを入れても月5,000円前後だ。

こう書いたからといって、私の方法を勧めているわけではない。がんは複雑系だ。同じ膵臓がんでも人それぞれに違う。同じ人のがん細胞でさえ、細胞毎に個性がある。だから私に効果があっても万人に効果があると考えることは無理だろう。膵臓がんで3年半生きている患者が、たまたまメラトニンやビタミンDを含むマルチビタミンを飲んでいた。こう考える方が理にかなっている。(もちろん私なりに根拠があると考えて実行しているのだが、その根拠はこのブログに書いてある)一つの症例、エピソードと考えておいていただきたい。あなたが治る方法は、あなた自身で探すしかないのです。

親切心かお節介か、がん患者に「これで末期がんから生還した人もいる。飲んでみたら」と試供品を渡す人もいるらしい。本当にその患者のことを考えているのなら、一生飲み続けられる量を渡すべきだろう。私なら「ありがとうございます。毎月送っていただけるなら喜んでいただきます」と応えることにしている。幸いにも、そのように親切なおつきあいをしている人はいない。


どんな患者が驚異的回復=いわゆる奇跡的治癒をしやすいか?『癌が消えた―驚くべき自己治癒力 (新潮文庫)』の訳者あとがきから引用する。この本は、免疫力を高めると、体を温めるとがんが治るとか、このレシピでがんが消えたとかいう類の本ではない。

この本には・・・これこそが「正しく」効果がある、と言えるものは一切書かれていないのだ。それでは何が書かれているかといえば、「その人に会う方法はその人自身がみつけなければならない。自分がどういう人間なのかを知りなさい」ということだ。それはしかし哲学的命題ではなく、不治の病に冒されていると知ったとき、その人の中で緊急の危機に対する全身全霊の総動員体制が組まれるなか、おのずと出てくるものなのだ。

私たちは生命の危機に直面したとき、それを乗り切るのは「強い意志と強靱な体」だ、と思いがちだ。けれどもアウシュビッツの強制収容所の例(フランクルの『夜と霧』を指している-キノシタ)でも分かるように、生き延びた人たちは「想像力豊かで、あいまいさや不確実性とともに生きられる人」、つまり嵐の時に逃げ込める避難所を心の中にもち、混沌の中でどんな小さなことにも自分なりのやり方や意味を見いだせる人だという。これは救いだ。なぜなら、あるタイプに自分を合わせる必要はない、ということだからだ。

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