サイトアイコン 残る桜も 散る桜ー膵臓がん完治の記録

「結果」を「目的」にする過ち

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河津にて


チェロのレッスンももう15章に入り、五度音程を同時に押す(ソとレ)とか、ピチカートで早いパッセージを弾くエクササイズになりました。このエクササイズでは左手が第4弦から第1弦へとか、第2弦から第4弦へと大きく移弦します。下の図で、最初の移弦は共に開放弦ですから右手の移弦だけでよいのですが、ソ→レ→ファの部分では第2弦→第4弦→第2弦と、大きく移弦します。

この部分、左手の指先を移動させようと焦ってもうまくいきません。先生曰く。「指で音を取りにいくのではなく、左腕・肘を上げて、腕全体を前に出すようにすればよい。そうすれば指は自然とその場所に移動するから。急いで指だけを移動させようなどと考えないことです。」

まさにその通りでした。私の場合は、指先で押さえようとするのですが、腕が移動していないから目的の弦に届かないのです。あたりまえと言えばあたりまえですが、初心者にはこれが分からない。指先でなく、腕全体に意識を合わせてやると、腕が動いてその結果、指が所定の位置に移動するようになります。これは同じ弦の上でのポジション移動やビブラートでも言えることです。指で音程を決めようとすると、確実に音程が定まらない。肘を先ず移動させて、その結果として遅れて指先が移動するように、釣り竿を振る感じでしょうか。竿を振るときに、竿がしなって、遅れて竿の先がついてくる感じ。葉っぱの先に貯まった水滴がポトンと落ちる感じ、とも表現されました。

「結果」としてしか得られないことを「目的」にしてしまう過ちと言えるでしょうか。「生きるために働いている」はずなのに、いつの間にか「働くために生きている」ようになり、挙げ句の果ては過労死などと、笑えない現実もあります。

製造現場では「品質は工程で作り込め」と言います。良い車を作ろうとするなら、一つ一つの工程を大事にしなさい、ということ。最終的は検査工程で粗悪品をはねるのではなく、設計の最初から品質は作られるのだと。がん患者の場合は、検査で数値が悪くても自分の身体を「はねる」わけにはいきません。しかし、検査結果だけに一喜一憂している患者がいかに多いことか。日々の営みが大事なのだと思います。

「治り方を知りたがる患者さんには、治るという現象が起きにくい」というのも、「治る」という結果を「目的」にしてしまっているのです。治るかどうかは「成り行き」であり、「たまたま」そうなるのです。自分のブログからの引用で恐縮なのですが、「サイモントン博士の講演会」でこんなことを書いています。

老子の言葉に「勝とうとしなければ負けることはない」というのがあります。癌の治療にも同じことが言えるということです。「何が何でも癌に勝ってや
る」という闘争心は、ちょっと躓いたときに疑心暗鬼になりやすい。「今の治療法で大丈夫だろうか。なにか魔法の特効薬があるのではないか。気持ちで癌が治
るはずがない」ということになります。

「そうか、勝とうとしなければ良いのだな。よし、今日から勝つという気持ちは捨てよう。そうすれば癌が治るに違いない」 このように考えたら、あなたは既に取り逃がしています。
勝つか、治るかどうかは「成り行き」なんです。成り行きだから目標にしてはいけない。目標にすることは「執着」することです。また、「勝とうとするな」とい
うのは、現代医学をすべて拒否して、心のあり方や食事療法などの代替医療で治そうというのではありません。ここは微妙なところです。治す努力はしなければ
なりません。しかしそれだけに執着しては治るものも治らなくなるのです。

私の下手な文章ではうまく説明できませんから、最近見つけた素敵な本『がんはスピリチュアルな病気』から紹介します。著者はメソジスト派の牧師さん。大腸がんで余命1~2年と言われた”元がん患者”です。

がんだから、私は毎日なにかをする

重要なのは、自分のすべき一つのことに集中すること一それも、ただこなすのではなく、その 経験を味わうことだ。”やることリスト”の項目にチェック印を入れ、あわただしく次の項目にとりかかるのではなく、集中し感じることが大切なのだ。

打席に立つと、つい言いたくなる。自分がここに来たのはよくなるためだ、ホームランを打って、がんをフェンスの向こうへ、いや、場外へ飛ばすためだ、と。そうしたいところだが、ホームランとは、小さななにかの積み重ねが最終的にもたらす結果に他ならない。スタンスの開き、バットの傾き、選球眼、体重移動、手首の返し一そういう小さななにかが集まって、アーロンをホームラン王に作り上げたのだ。打席に立った私がやらなければならないのは、単によくなることだけではなく、よく生きること、その日の一つひとつの出来事に集中し、小さなことに目を向けることだ。なぜなら、その一振りに愛を込める方法が、私の取るべき唯一の方法だからだ。

今の私が毎日することは、以前の私がやっていたことを全部合わせたよりも重要なのだ。この先の命が長かろうと短かろうと、苦しみが待っていようと、安らかだろうと、私が毎日すべきことは、表現の手段はさまざまでも、同じ一つのことだ。

だから、一通の手紙、一本の電話、一枚の皿洗いにありったけの愛を注ぐ。よく生きれば、病気もよくなるだろう。でも、重要なのはそこではない。哲学者セーレン・キルケゴールは、「心の純粋さとは、一つのことに打ち込むことである」と書いている。ホームランだろうと、送りバントだろうと、打席で私がすべきことは、ただ一つ、”愛すること”なのだ。

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