サイトアイコン 残る桜も 散る桜ー膵臓がん完治の記録

人生に点数をつけない

私たちの心のどこかに、点数をつけたがる自分がいる。今日の散歩の歩数を記録して「ま、今日は結構歩いた」とか、会社には売上目標があり成績グラフがある。役職があり、課長よりは部長の方が「人生の点数」が上だと、世間では言われている。

がんも記録をつける病気だ。腫瘍マーカーが上がったとか下がったとかで一喜一憂する。右下がりになっていると単純に嬉しい。副作用に耐えている自分を褒めてやりたくなる。医者も、私の心よりもデータを大事に考えている。データが良いと診察も短時間で終わる。患者の心の問題など、無頓着である。

でも、データに頼って生きていると、データが原因で死ぬことにもなりかねない。データがなければ自分の体の状態を把握できないのなら、それは自分の感覚が信じられないということ。身体が大丈夫か、まだ耐えられるかを知る手立てが他にないということだからだ。「俺はまだ死なないよね。だってデータがこうなっているから」というのでは、常に生きている正当性を証明し続けなければ、生きる権利がないかのようではないか。

わたしたちがん患者は、生存率曲線を構成するひとつのデータではない。人はデータとして生きているのではないのだ。データは過去の証しとしても未来の指針としてもあまり頼りにはならない。まったく頼りにならないというわけではないが、データ、特に統計データに頼っている人は、統計通りに死んでいく(と思う)。

そんな統計データや記録よりも、自分の心の本来の声に従った方が良い。がん患者だから四つ足の動物の肉は食わない? それって勿体なくはないか。美味しい物を食いたければ、食えばよい。信念に従って生きれば良い。体力なしでどうしてがんと闘える?

スコアボードをつけながらがんとの闘いに臨む? ま、それも良いけどね。腫瘍マーカーのグラフの上下があなたの治癒を保証するわけではないよ。スコアなんかは無視をして、この今与えられた時間を十分に楽しんでごらん。そうすれば、あなたの人生が終わったとき、それはがんと人生に勝ったも同然なんだよ。

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