サイトアイコン 残る桜も 散る桜ー膵臓がん完治の記録

がん哲学

「がん哲学」という聞き慣れない言葉を最近知った。順天堂大学医学部教授、
樋野興夫氏の造語だという。

先日放映されたNHKスペシャル『立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む』の冒頭に立花隆の膀胱がんを説明する病理医として登場していました。

「がん哲学外来」とは何ですか、との問いに、樋野氏は「偉大なるお節介」だと答える。がん患者が自分のがんについて安心して話せる場がない。家族や友人がいても、お互いに気を遣って病気の話題はあえて避けることが多い。一番の相談相手は主治医であるべきだが、主治医が忙しいのは患者もよく分かっている。運悪く相性の合わない主治医に当たると、悩みを聞いてもらうどころか、主治医との関係そのものが悩みの種になっていることもある。がん患者、徳に末期のがん患者が抱える悩みは病人としての悩みではなく人間としての悩みではないだろうか。がんという大病を得たとき、それを背負って人間としてどう生きるのかという深い悩みに違いない。それはホスピスや終末医療で言う「心のケア」というレベルではなく、自分という人間の存在全てを問う領域であろう、との考えで、試験的に「がん哲学外来」を始めたそうだ。多分閑古鳥が鳴くような状況になるだろうと予想していたのが、思いもかけず予約が一杯で、申し込みを断わらざるを得ないほどの盛況だった。がん患者の多くが「人間としてどう生きるべきか」という問に深く関心を抱いていることを改めて認識したと言う。

そうだろうと思う。がんと告知されたら病状や予後の重い軽いに関係なく、自分のこれまでの人生やこれからの時間、妻子などのことを考えない患者はあるまい。身近に迫った「死」までの時間がカウントできるようになる。明日も今日と同じように続くことが当然であったものが、近い将来にはそうはならなくなるということに気づいて愕然とする。

主に末期がんの患者に、樋野先生が「がん哲学外来」で話した言葉のいくつかを紹介する。

人生いばらの道、にもかかわらず宴会
病気であっても人生を楽しむことはできるんだ。このブログでも同じような言葉を書いたことがある。「将来は悲観的に、現在は楽観的に

人間死ぬのは確実、いつ死ぬかは確率
人は100%死ぬのです。しかし、いつ死ぬかは誰にも分からない。余命宣告など当たったためしがない。

あいまいなことはあいまいに考える
腫瘍マーカーの数値に振り回されない。世の中の測定値には必ず測定誤差がつきまとう。誤差の範囲もあれば、測定ミスだってある。エビデンスといったって、統計的に処理して始めて何らかの違いが分かる程度のもの。逆に言えばほとんど違いがないものを説得するために統計的手法が存在する。誰が見たって一目瞭然でAよりもBの治療法が優れているのであれば、二重盲検法や統計的手法など必要ない。だから、あいまいにしか分からないことに対してはあいまいに考えておけばよい。

「今日が人生最後の日」と思って「今」を生きる
死を考え、未来のことをあれこれ思い悩むのは人間だけ。犬や猫を見てごらん。目下の大事、えさをねだる。おいしいものを夢中で食べる。寝るときは誰に遠慮もしない。何とも幸福そうではないか。花や草は明日台風が来るだろうかと気をもんだりはしない。そのときはそのとき。だめなら散ればよいという潔さがある。
それに、今日が人生最後の人思えば、明日再発・転移するかしないかなんて問題にならない。

がんを忘れて生きなさい
そうそう、その通り。私も普段はすっかりがんのことなんかは忘れている。忘れろなんて簡単に言うな! という人は、夢中になれることを探せばよい。無我夢中に何かをやっているときにはがんのことなんかは忘れているはずだ。そしてその時間は至福の時間であるはずだ。結局人生の目的とは、金でも地位でも名誉でもなく、幸福を体験することだと思うがいかがだろう。がんについて考えるのは、最後でいい。

2冊の著作を読んで、我が意を得たりとひざを打つような内容だった。しかし、私の考えは樋野先生とは少し違う。樋野先生は、治癒が難しいがん患者を対象にして、いずれ死を迎えることを前提に考えている。私は、治癒が難しいと予想される(多分再発するだろうと思っている)膵臓がんであっても、治すために「哲学」が必要だと考えている。ここに大きな違いがある。治らないと思われるがんであるなら、なおさらがんを哲学的に考えることが必要だと思う。命とは何か、なぜ死なねばならないのか、死とは何か、生とは何か。こうしたことへの答えを用意する。もちろん答えはすぐには見つからない。生涯見つからないかも知れない。しかし、過去の偉大なる先人に先導されながら考えてみる。自分の命の価値を計り直してみる。そして心平安にがんとつきあう、あるいは闘う。がん治癒への道、がんサバイバーへの道を探し当てるには、がんとの哲学的な付き合いがなくてはならないと思う。そうすることが、結局は心を平安にし、免疫力を高めてがん細胞との闘いを有利に進めることが可能となるはずだし、そのように生きてきた。

このブログでは恥ずかしげもなく良寛や兼行や道元のことを書いてきた。セネカや老子を読んできた。複雑系生物科学や宇宙の成り立ちやリーマン予想と素数について書いてきた。なぜなら、これらの全てが、私が哲学的にがんと人生を考えるために必要だったからだ。「死」を受け入れ、がんとの折り合いを付けるためには、先人の知恵を借りるのが近道だからである。

がん哲学外来入門
樋野 興夫

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