サイトアイコン 残る桜も 散る桜ー膵臓がん完治の記録

代替療法について考える


20日もブログを更新しないあいだに、外はもう春の装いをはじめたようです。早咲きの桜は、枝の先端に蕾を用意しています。先月は新潟の松代で積雪4mの雪景色を巡り、先の週末は沖縄で初夏の暖かさを体感してきました。

この世にどうしても残しておきたいWindows Mobileのプログラムがあり、膵臓がんだと分かったときから何とか完成しなければと思いつつ、延び延びになっていたのです。プログラミングは、私にとっては熱中できる趣味のような作業ですから、免疫力もアップしただろうし、日本HPのiPAQ112 も売れ行きが増えるに違いありません。それを何とか完成して、あといくつかの締め切りの迫った作業に没頭していました。「がん患者が考える生と死」も終わっていないし、「代替療法について考える」もまだ書きたいことがあるのですが、まぁ、ぼちぼちやっていきます。

『代替医療のトリック』についてもう一度考える

『代替医療のトリック』は確かに良い本です。ホメオパシー療法がまったく効果がないことが巧みに説明されているし、二重盲検法によって多くの命を奪ってきたかもしれない治療法が廃れ、効果のある治療法が普及してきたことは明らかです。しかし、がん患者としてはいまいち釈然としないのです。つまるところそれは、

でも、余命半年、そんなことは言ってられない!私には何ができるのですか?
と訊く患者に、「ホスピスが用意されています。あなたには死の受容必要です」と言われたって、それは納得できない、ということでしょう。

はっきりとしたエビデンスのある治療法は限られています。それに現在の医療のすべてにきちんとしたエビデンスがあるわけではなさそうです。心臓冠状動脈のバイパス手術もエビデンスがなくて行なわれています。実際はバイパス手術をした患者としなかった患者に生存期間に差はないと言われています。しかし、日本でもアメリカでも沢山行なわれています。一番わかりやすいのは風邪のときに投与される抗生物質。ウイルスが原因の風邪に、抗菌性の抗生物質が効くはずはないのに、それでもちょっとした風邪で町のクリニックに行くと、ほとんどの場合抗生物質を投与されます。日本呼吸器学会は風邪への安易な抗生物質処方を控えるべき旨のガイドラインを発表していしるし、日本小児呼吸器疾患学会と日本小児感染症学会がまとめた「小児呼吸器感染症診療ガイドライン2004」でも風邪には抗生物質は効かない、細菌性二次感染の予防目的の投与も必要ない、と書かれています。

このように、現在医療がエビデンスに基づいておこなわれていると考えるのは幻想なわけで、実体はそんなものではない。きちんとしたエビデンスが少ないのは、一つには日本では治験が行ないがたいとうこともあります。

「新しい薬を開発することで、将来の患者が助かるかもしれません。これは二重盲検法で行ないます。あなたには新しい効果があるかもしれないAという薬か、まったく効果がないが外見は同じBという薬のどちらが投与されるかは分かりません。主治医である私にも分からないのです。ただ、万が一B薬であったとき、症状が悪化したら治験を中止することはできます」

これは実際に私が体験したことです。糖尿病の治験に参加してくださいとの依頼を受けたときの説明です。もちろん「これまでの薬でお願いします」と断わりました。患者には治験に参加するメリットがないのです。がんのように、もう他には治療法がないというとき以外は、国民皆保険の日本では治験は難しいでしょう。

また、メラトニンのように効果のある可能性があっても、特許の取れない薬に製薬会社が莫大な金を投資して治験をすることは有り得ません。 ですから、エビデンスのある治療法は限られているのです。

抗がん剤ではがんは治らない。一部のがんを除いては治らないと言うべきかもしれませんが、すくなくとも再発したがんには抗がん剤は効かない。しかし、それでも抗がん剤をやるのは、一つには患者が「先生、何とかしてください」というからであり、医者も効かないと思っていても放置することは医師の倫理に反する。ごく希には効果がある(治るのではなく一時的な縮小)例もあることを知っているからなおさらであろう。それならば、同じように効かない、効くかもしれない代替医療を尽くしたって良いではないか? 副作用がないだけましだし、プラシーボ効果というご褒美がついてくるかもしれない、と考えることは無謀なことでしょうか。

患者のこころの問題を置き去りにしてエビデンスを掲げても、問題を難しくするだけのように思えます。がん患者は、自分も「治療に参加したい」のです。何かをやっているという安心感と、治療の主導権を持っているのは自分だということを確認したいのです。

ところが、標準治療あるいはエビデンスのある治療というのは、数ヶ月の延命効果しかないというエビデンスがあるだけです。患者は治りたいし、治らなくても数年の延命を期待しているのにもかかわらず、現代医医療ではその程度の効果しか望めない。提供できる医療のレベルと、患者の期待するレベルに大きな食い違いがあるのです。

代替医療を推進しようとする人たちの持ち出してくるデータは、眉につばを付けて良く吟味する必要があるが、それは通常の医療にも言えることであり、治験のデータが改ざんされていたという例はたくさんある。悪意はなくても自分の信じている治療法の結果に「思い込みのバイアス」がかかるのは当然だと言えます。それはたとえば統計データを棄却検定するという「正しい」方法で、望ましくないデータを削除するという方法でも可能だし、対照群にあまり成績の良くない治療データをもってくるということでも可能なのです。

気象予報士は、過去の天気について「高気圧が移動して、前線がここにできて・・・」というふうに「後知恵」で天気を説明することはできる。しかし、地球シミュレータと呼ばれるスーパーコンピュータを駆使しても、3日後の旅行に傘が必要かどうかを断定することは難しい。それは気象が複雑系であるからです。雲の生成についての有効な方程式は見いだせていないのです。同じように人間の身体も複雑系であり、あるがん患者のこれまでの経緯を説明することはできるでしょうが、3ヶ月後にがん細胞がどのように大きくなるか、あるいは小さくなるかを予測することは不可能です。

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多くの要素が複雑に絡んでいる人間の身体で、抗がん剤の効果がどうなるかなんて、予測することは”原理的に”不可能なので、しかたなく統計的に説明せざるを得ないわけです。エビデンスと言っても所詮はその程度のものです。あなたの明日を計算して約束してくれるわけではない。

だとしたらどうすればよいのか?

富士山に傘雲のかかった写真を撮りたいとカメラマンが考えたとき、どうすればよいのか?傘雲の生じる気象条件を調査し、その気象条件になりそうな天気が予想されるときに、何度も何度も足を運ぶのです。こうして足を運んでいるうちに、運が良ければ1回で撮れるし、運が悪ければ100回行ってもだめかもしれない。つまり、複雑系で偶然に左右される現象を自分の良い方に引き寄せるにはこの方法しかない。複雑系においては起きる確率の小さい現状であっても、「たまたま」起きるということは珍しいことではないのです。

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代替医療も同じではないかと思います。はっきりと効果があるとは言えないが、何か他とは違うような、あるいはホメオパシーのようにまったく効果があるはずのないものではない限り、プラシーボより少しでも効果があるものなら、偶然によって効果が現われることもあるはずです。いや、プラシーボ効果であったってかまわないのです。治ればどうして治ったかなんてどうでも良いのですから。ある論文では効果があるといい、別の論文では効果が否定されるようなものならたくさんあります。そうしたものも対象にすればよい。沢山挑戦すれば、もしかすると運良く「傘雲」に出会えるかもしれません。そのためには、傘雲の出るはずのない気象条件を知って、その日には出かけないことです。ムダなことはしない。同じように、その代替医療についての知識を集めて、ふるいにかける必要があります。「数打ちゃ当たることもある」ということなのですが、数打つためには、危険な副作用がないこと、高価でないこと効果があるという相当程度の証拠が必要です。富士山なら良いがヒマラヤには何度も行くことはできません。その意味でも高価なサプリメントは避けた方が賢明です。

科学と似非科学の境界は曖昧であり、医学と代替医療の境界も曖昧です。それらの間にはっきりとした線引きはできないのです。私は医学は科学ではないと思っているのですから、なおさらです。あえていえば「医学は芸術」です。だから名医といわれる医者が存在するのでしょう。

私が選んでいるサプリメントは、こうした考えに基づいていると言っても良いでしょう。

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