サイトアイコン 残る桜も 散る桜ー膵臓がん完治の記録

細かなことと小さなこと

するべきことよりも、したいことをする。自分の声に耳を傾ける。がんになってからは、そんなつもりでやってきたのだが、最近はどうも”するべきこと”に振り回されているような、そんな気がしたので、連休中はニュースも見ない(福島原発が気にはなったが)、ブログも書かない(ついコメントにレスを書いてしまったが)、インターネットに接続しない、でのんびり過ごした。ハードディスクに蓄えた音楽を流しっぱなしでぼんやりと時間を過ごしていた。指先の皮が少し厚くなるほどチェロを弾いていた。もちろん深蒸し茶を何杯も飲みながら。

以前にマクファーランドの『がんはスピリチュアルな病気 ―がん患者と愛する家族のための心と体の処方箋―』を紹介したが、内容についてはまだ書いていなかった。気に入った章を一日一章読むのがよい。こんな題名の章がある。「不満屋になる練習をする」「わが身の悲惨なありさまを喜ぶ」「自分に耳を傾ける」「今を生きる」「準備をしない」「スコアをつけない」どれもこのブログで書いてきたことと通じているような気がする。

私のするべきタスクは効率的に管理されている。ToDoリストはRemember the Milkでばっちりだし、インターネットで気になる情報はEvernoteにすべて保存してある。蔵書と読みたい本はmediamarkerにすべて保存されている。誰からも催促されることのないように、効率的に、完璧に時間を使っている。しかし、気がついてみると人生の時間をそのために費やしている。せかせかした、おかしくなった世の中に合わせてきたつもりが、いつの間にか人生の時間を乗っ取られている。

「小さなことにくよくよしない」と題して、本の中でマクファーランドはこんな風に言う。イエスが死んだ娘の手を取って「少女よ、起きなさい」と言われた。すると少女が起き上がったので、家中の人々は狂喜乱舞した。少女のことはそっちのけだった。見かねたイエスが、「ほら、少女がお腹を空かせている頃だ。何か食べ物を持ってきなさい。一切れの魚などが良いだろう」と言われた。世界を救うことを使命としているイエスが、どうしてそんな細部にまで心を配ることができたのだろう。一切れの魚は、細かなことだ。しかし、少女にとってもイエスにとっても小さなことではなかった

細かなことに注意を払えば、誰かのお腹が満たされる。小さなことは、世界中の愛の蓄えを食いつぶす。

自分には解決のしようのないことは”小さいこと”だ。解決法がないのなら、それは”問題ではない”のだ。解決法のないことをいつまでも考えているのなら、それは小さいことにくよくよしている証拠だ。

福島原発の核燃料が再び爆発しないか、と心配することは、だから小さなことだ。しかし、節電をし、エネルギーを湯水のように使う生活を見直すべきだと考えること、そうすれば原発は要らないのではないかと検討してみることは、細かいことである。私のがんが再発しないだろうかと寝ても覚めても考えているとしたら、それは小さいことである。がんに効く食事を摂り、規則正しい生活をし、良く歩き、深蒸し茶でも飲んでリラックスしてみることは細かなことである。

相変わらずToDoリストにチェックは入れているが、最近は「延期」を頻繁にするようになった。”明日できることは今日はしない”というのも、周りに大きな迷惑をかけなければ良い選択肢だと思う。そんな調子だから、ブログにコメントをいただいても、その気にならなければレスはしないので、気を悪くしないでいただきたい。コメントへのレスが小さなことか、細かなことかの判断は、これもその日の気分次第である。

小さなことにくよくよせずに、細かなことに気配りができるようになったとしたら、それはがんからの贈り物だ。

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