朝日新聞の木曜日の夕刊に『日々是修行』というコラムがある。花園大学教授の佐々木閑氏のコラムですが、これをいつも楽しみにしています。
2008年4月17日の『「合理的」に考えるとは』のタイトルのコラムでは、量子力学における「多世界解釈」という言葉が出てきてびっくりした。
この人は仏教学者のはずだが、どうして量子力学に詳しいのだろう。調べてみたら「京都大学工学部工業化学科を卒業後、同大学大学院文学研究科博士課程に入学、退学後、カリフォルニア大学バークレー校に留学、京都大学文学部哲学科仏教学専攻卒業」となっているので、なるほどと思った次第です。
『「合理的」に考えるとは』のコラムでは、次のように書かれている。
この世界は時々刻々分裂を繰り返していて、あなた自身も次々と分身している。この自分は平行して存在している大勢のあなたの一人に過ぎず、他の世界には別のあなたがいるのである。しかし、こんな考えは非常識であり、まじめに言うと馬鹿にされるだろう。しかし、量子力学の解釈を合理的に進めていけば、論理的にこうした結論になるのだ。正しい論理を積み重ねて得た結論は合理的であり、重要なのは結論よりも考える道筋である。外見上は常識的で世間一般が「そうだ、そうだ」と納得しても、途中の論理に狂いがあればそれは不合理なのである。その典型的な例が「マイナスイオンは身体によい」という主張である。
前置きが長くなりました。量子力学(量子論)の話しに入りましょう。とは言っても私のようなど素人が、物理学者でも正確にわかっている人は少ないと言われる量子論について、しかもブログでわかりよく説明するなど、月に向かって犬が吠えるようなものです。量子論に関するわかりやすい解説書がたくさんありますからそちらにお任せします。
とりあえず前提として、次のことが分かったつもりになってみます。
- 有名な二重スリット実験により、光は粒子と波の両方の性格を持っていることが分かった。
- 電子についても同様に、二重スリットを通ると干渉縞が生じる。これは電子も波の性質を持っているということである。
- 光子や電子が、どちらのスリットを通過したかを観測装置で測定すると、干渉縞は現われない。人間が「観察」することによって結果が違ってくる。
- スクリーンに到達した電子は、「1個」の粒子としてスクリーンを光らせるのであるが、到達する位置は途中の二重スリットを通過して干渉した波形に応じた確率に対応した一点である。
量子論では「世界はどんなに精密に観察しても、本質的に不確定なのであり、それがどう見えるかは、我々観察者側のあり方が決めること」という結論です。合理的に考えればこうなるのであり、常識は捨てなければならないと主張するわけです。
ところで、量子論でも説明の付かないことが一つあります。それは先の二重スリット実験において、電子がスクリーンに到達したときに何が起きているのかを説明することができないのです。電子は二つのスリットを同時に通過するから干渉縞が現われるのであり、そのことにより、途中では「波」として進んでいることが分かります。
しかし、波としてやってきた電子がスクリーンに衝突したときは、一個の粒子として光って現われるのです。波であったものがスクリーンに到達した瞬間に粒子に変貌します。これを「波の収縮」といいます。量子論の数学からはこの現象を説明することができません。量子論の最大の弱点です。それで、「シュレーディンガーの猫」という思考実験で攻撃されることになったのです。
この難問に対する一つの回答として出されたのがエヴェレットの「多世界解釈」です。電子がスクリーンのAという点に衝突した世界、B点に衝突した世界・・・・・と延々と無限に続きます、どの世界も電子の波がスクリーンに描く干渉縞の確率に応じて存在することになります。A点に衝突したと私が見ているのは、A点に衝突した世界にいるかであり、別の私がB点に衝突した世界にもいる、C点に・・・・・。とこれも無限に続きます。
佐々木閑氏が「量子力学の解釈を合理的に進めていけば論理的にこうした結論になる」というのはこういうことです。とにかく世界は時々刻々分裂して枝分かれするように別の世界が絶えず生み出されていると、量子論を突き詰めていけば、そう考えざるを得ないということです。
「多世界解釈」が仏教の輪廻転生、三千大千世界、無量寿仏(阿弥陀如来)などとどのように関係するのか、長くなったので次回にします。