サイトアイコン 残る桜も 散る桜ー膵臓がん完治の記録

観ました「地球交響曲第7番」、霊性について

がんになる前は、東京都写真美術館には良く足を運んだものでした。数々のすばらしい写真展を観てきましたが、しかしここしばらくは足が遠のいていました。『地球交響曲第7番』を鑑賞するために久しぶりに恵比寿の駅に降りました。

6月20日のブログで紹介していますが、私の主な関心は、映画の中でアンドルー・ワイルが何を語るかということです。

地球交響曲(ガイア・シンフォニー)は、ジェームズ・ラブロックによって提唱されたガイア理論(ガイア仮説)をもとに映像化されたものです。ガイア理論は、生物と環境とが相互作用によって「恒常性」を形成していくという理論であり、地球をある種の「巨大な生命体」と見なす考え方です。

今、母なる星GAIAは悪性の肺炎に苦しんでいます。過激化する天候異変は、自らの力で病を癒そうとするGAIAの巨大な自然治癒力の現れです。そして、私達人類は、そのGAIAの心を荷う存在です。
「第七番」では「GAIAの自然治癒力」の健やかな発現を願って、GAIA本来の「心」とはなにか、その「心」に寄り添うために、私達人類は今、なにに気付き、なにを捨て、なにを取り戻すべきか、を問いたいと思います。

このような意図で作られた映画であり、印象的な映像と素敵な音楽に癒され、監督の意図は十分に伝わってきます。わたしたち「サル」は、あまりにも多くの物欲にとりつかれている。本当に大事なものは何なのか、何を捨て、何を残すべきか、切実な問題に直面しています。しかし、映画では随所に「霊性」ということばが示され、それが伊勢神宮・明治神宮・神社本庁あるいは神道の古代儀式と関連づけて映像化されている点には違和感を覚えます。古代シャーマニズムの伝統を受け継ぐ道祖神などの民間信仰と日本神道ですが、先の第二次世界大戦において果たした日本神道の戦争協力への役割を考えるとき、ガイアの平和と日本神道の歴史とは相容れないはずです。「霊性」のキーワードで日本神道の否定的役割を免罪してはいけない。

「霊性」ということばは、日本人にはなかなか理解できません。spiritを「霊性」と訳しているわけですが、英和辞典では「肉体・物質に対して人間の霊的なこころ」とか、「神、精霊」・「元気」「酒精」「(複数形で)強い酒」とあります。がんの治癒にメディテーションを推奨している多くの書籍でも「身体・こころ・霊性」というふうに書かれる場合が多いのですが、こころと霊性はどのように違うのか、私も長い間理解できませんでした。(今でも解らない部分が多いが)広辞苑(第4版)にも出てきません。

「霊性」という言葉は、鈴木大拙が『日本的霊性』で初めて使ったということです。その本の中で、霊性という言葉を使う理由、つまり霊性という言葉が従来からある精神、心、宗教意識などという言葉とどう違うかということを説明しています。「精神」が「物質」に対立する言葉であるのに対して、「霊性」は物質と精神の両方を成り立たせる土台であると述べている点が注目されます。あるいは「霊性」を「宇宙の中のいのちの自覚」であるとし、宮沢賢治においては「日本的霊性」を超えた「銀河的霊性」にまで及んでいるという研究者もあります。これなど私流に言えば老子の「タオ」ということではないか、賢治も大拙も同じことを言っているんだと思います。

霊性と言うといかにも観念的な影の薄い化物のようなものに考えられるかも知れぬがこれほど大地に深く根をおろしているものはない、霊性は生命だからである。
大地の底は、自分の存在の底である。大地は自分である。
都の貴族たち、そのあとにぶら下がる僧侶たちは大地と没交渉の生活を送りつづけた。
彼らの風雅も学問も、幽玄も優美も空中の楼閣で本当の生命、真実の生活とかけ離れたものであった。

大地の霊とは、霊の生命ということである。
この生命は、必ず個体を根拠として生成する。
個体は大地の連続である、大地に根をもって、大地から出て、また大地に還る。
個体の奥には、大地の霊が呼吸している。
それゆえ個体にはいつも真実が宿っている。
(『日本的霊性』より)

アンドルー・ワイルは最新の著作『ヘルシーエイジング』で「霊性」について次のように書いている。

日本で講演をするときは、話がこのテーマに関連してくると、通訳を悩ませることになる。英語の「スピリット」をそのまま「霊」と訳すと、わたしが幽霊とか、先祖崇拝とか、霊の憑依といった話をしていると聴衆に誤解されかねないというのである。むろん、そんな話をしているのではない。わたしはただ、われわれのなかにある不変の本質について注意を促そうとしているに過ぎないのである。

二十何年ぶりかで参加した同窓会のことを思い出します。四半世紀を隔てて、私のなかの記憶とその人の現実のイメージとの間には類似点が見つからない。なかには一目でこいつだとわかるやつもいる、一方でさっぱりとどこの誰だか解らず、最後まで気まずい思いをすることもある。しかし、少しずつ話をしていると、だんだんと記憶のなかの相手と目の前の相手が一致してくる。老いて別人のように変わった相手の外見を通して、何も変わらない本質のようなものが見えはじめるのである。老いたこの身体ではなく、半世紀もかけて経験と知識を学んできた精神(こころ)でもない。それ以外の何かが、クラスメートにも私にも確かにある。

ワイルは「霊性」とはこうした時間によって変化を受けることのないものであり、自己のその部分を「不変の本質」と呼ぶ。これが「スピリット」なのだと言うのである。そして「霊的な自己」への気づきに役立つスピリチュアルな活動として、こんなことをしなさいと言います。

霊性に気付くとは、こんなことでよいのかと思うほどの内容ですね。宗教的実践とももちろん日本神道とも関係がないのです。

夏休みにワイルの著作を読み直している。手術の直後はよく読んだものだが、読み直してみると、自分の思想やがんに対する考え方もずいぶんと変わってきたことに気付くのです。

癒す心、治る力―自発的治癒とはなにか (角川文庫ソフィア)
アンドルー ワイル Andrew Weil


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