サイトアイコン 残る桜も 散る桜ー膵臓がん完治の記録

治らなくても「敗北」ではない

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秋明菊(シュウメイギク)<群馬県・赤城自然園にて>

がんが治らなければ「敗北」でしょうか。がん患者なら、あわよくば自分だけは奇跡的にでも治って欲しい、と考えることは当然でしょう。しかし、あまりにも「治る」ことにこだわりすぎると、人生の貴重な時間を治ることだけに費やしてしまわないでしょうか。

柳原和子さんも、治らなければ「敗北」という風潮があるのはおかしい、と言っていました。

柳原和子さんは、腫瘍が奇跡的に消失する体験を何度も経験している。そんな彼女が、もう最後だと思ったときの加島祥造との対談があります。その対談で、

どうやったって治らない。十年間頑張った。どうあがいたって、何をしたって、がんは追いかけてくる。

そのときに、「治ると思うことをやめよう」と思いました。残りの時間を、楽しく生きて死んでいけばいいやと、「何もしないこと」を始めたんです。

と話しています。彼女の遺稿を集めた『がん患者への贈り物 – 柳原和子の、最後に伝えきれなかった「言葉と知恵」』では、亡くなる直前までの心境を紹介していますが、「強い柳原和子」という偏見を打ち破りたいかのように書かれています。

医療を信頼すればするほど、治らなかったときの敗北感は大きいのでしょう。しかも、少ない例であるとはいえ、がんが奇跡的に治る患者がいるから、それが希望であると同時に、自分は敗者だという思い込みにつながります。

瞑想の初任者向けマニュアルといえる”パーリ教典”を解説した初期仏教の長老スマナサーラ氏はこんな風に言います。

治しても何の意味もないのです。死んだ人を生き返らせてあげるなどという、世の人が喜ぶ奇跡も、意味がありません。

だってせっかく生き返らせてあげても、また死んでしまいますからね。世間で言われる「生き返らせた」話は本当ではないと思いますが、本当だとしても馬鹿げているのです。たとえ、ガンを超能力で治してあげても無駄なのです。その人だって年をとって、結局は老い衰えて、死ぬのですから。

お釈迦様の唯一のアドバイスは「心を清らかにすること」でした。

治る病気なら治るし、治らない病気は治らない。しかし、せっかく生まれたこの人生を「大成功だ。これで良いのだ」と思って終えられるかどうか、これがもっとも重要なことでしょう。

治ることにこだわる人は、体の全体性、免疫システムの法則から言っても、逆に治ることを妨げているのです。

治るか治らないかは「成りゆき」なのです。複雑系である人体に対して、浅知恵で対処しても目的を達成できるという保証はありません。

正しい死生観を持って、死を恐れないことです。死ぬのは特別なことではない。あたりまえのことです。

我々は「死」を選択することで、遺伝的に優位に立った種の末裔なのです。大きな全体性の一部として、死を迎える姿勢を持つことが、逆に奇跡的な治癒への可能性につながるのです。

治りたがる人には、治ることは希である。
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