久しぶりにサイモントン療法について

わたしを超えて―いのちの往復書簡 瞑想は毎日欠かさずにやっていますが、就寝前に布団の中で始めると、5分ほどで寝入ってしまいます。これでは効果がないのかなと思っていたのですが、『わたしを超えて―いのちの往復書簡』で玄侑宗久氏が「瞑想は集中して5分もやれば十分」と書いてあったので、安心しました。

この本は岸本葉子さんとの往復書簡ですが、この中でサイモントン療法について「イメージがあまりにも西洋的すぎる。敵を取り囲んで白血球がやっつけるというのは、本当にアメリカ的です」と書かれています。サイモントン療法のイメージは白血球ががん細胞をやっつけるというだけではなく、もっといろいろな、患者が工夫できる余地のあるものなのです。

たとえば、川畑伸子著『サイモントン療法』では、「がんと癒しのメディテーション」「安らぎのリラクゼーション」「内なる叡智のメディテーション」「死と再生のメディテーション」などのイメージが紹介されています。私は「聖なる庭のメディテーション」が気に入っています。

しかし、禅の考えが浸透している東洋人には東洋人なりのサイモントン療法のやり方があるのではないかとの考え方には賛成できます。「がんサポート情報センター」のサイトに鎌田實医師との対談もあり、同じことに言及しています。

玄侑 鎌田先生も心がどれだけ体に影響を及ぼすかという例で、サイモントン療法について書かれていましたね。サイモントン療法は私も何人かの方に勧めて、それなりの効果があると思っています。ただ、イメージがあまりに西洋的すぎると思います。敵を取り囲んで白血球がやっつけるというイメージは、本当にアメリカ的ですね。

鎌田 がんばる姿勢ですよね。

玄侑 ええ。もっと和合のイメージで、ああいう療法ができないかと思いますね。がんは確かに、悪い現象を起こすやつではありますが、退治する以外に手はないのかと思います。

鎌田 たとえば、どういうふうに?

玄侑 私はやっぱり八百万という言葉が好きです。カオスの中でみんなが咲き賑わっているあり方といいましょうか。あるいは、『華厳経』というお経では、雑華厳飾といって、命の多様性を讃美します。いろいろな華が世界を飾っていて、全体が和合してると考えるんです。そういうのをイメージ化できたらと思いますね。

鎌田 排除するのではなく、取り込んでしまうという感じ?

玄侑 ええ、みんなが花となって咲くという感じです。
そんなことやってられるかいと、苦しい人は思われるでしょうが、うちのお寺の檀家さんにも「自分は瞑想で治した」と言い切る方がいます。直腸がんの末期でしたが、病院で残り時間を聞いたあと取引先へ行って、「お医者さんはこういいましたが、私は死にません」と挨拶して回ったというんですよ。で、それから何をやったかというと、瞑想とキチンキトサンだけだと。今でも元気に社長をやっていますが、瞑想は続けているようです。
瞑想とは頭から言葉をなくす技術ですが、言葉をなくすだけだとむずかしいんです。かわりに、別なものをあふれさせればいいんです。ビジュアルでもいいし、音でもいい。それで言葉も居場所がなくなります。

岸本さんも攻撃的なイメージではなく、「せせらぎ」を思い浮かべるといいます。色とりどりの小石が見えるくらいの浅いところを、明るく透明な水が平らかに流れているイメージです。私の写真でならこんな感じになるでしょうか。

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実践!「元気禅」のすすめ」
瞑想法についてのやりとりは、『実践!「元気禅」のすすめ」』で述べている「憶」「思」「想」「懐」へと進んで、流れを適温のお湯に見立てて身体を浸してみることを玄侑氏は勧めます。ついには岸本さんは温泉で瞑想を実行することに。その温泉地は伊豆の河津で、河津桜の咲く小川の岸辺を思い浮かべるでのですが、これは偶然にも先週私が旅行した場所であり、河津桜の咲く季節でした。

『わたしを超えて・・』で、ふたりの話題は縦横に跳びます。ボーアの量子論のおける「相補性」、オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』『弓と禅』では、矢を放とうとしてはならない、的に当てようとしてはならないという師の教えに納得できないヘリゲルが、どのように格闘してその極意に達したかが話され、般若心経を「理性で分かろうとしないで」暗誦する岸本さんの格闘が紹介されます。

がん患者は「正しい死生観」を持つことが大切だと、多くの方が言います。それは、いずれ抗がん剤も効かなくなって死を迎えるのだから、その準備をしなさいということではないのです。がん患者には、命とは何か、この世界はどうして存在しているのか、私が死んだ後この世界はどうなるのか、人生とは何か、こうした問いについて考える時間が与えられています。脳卒中や交通事故では、このようなことを考えている余裕はありません。しかし、考えるためには道案内役が必要です。サイモントン療法も瞑想もその道案内のひとつと考えればよい。もちろん、がんを治したいがためにサイモントン療法を行なうのですが、「治りたい」という「欲」だけが先に立っていては治ることは難しいかもしれません。「治り方を知りたがる患者さんには、治るという現象が起きにくい」とも言います。それは「死」という恐怖心に囚われているからでしょう。だから何としても治りたい、がんと闘って勝ちたいとなるのです。頑張るのも、ある意味では恐怖心から生じているのでしょう。

「楽観的な人は、長生きする」からといって、では「長生きしたいから、楽観的に生きる」となれば、その時点ではき違えています。岸本さんはこれを「主語と述語は入れ替えられない」と明晰に述べています。私は以前にこう書きました。がんに勝とうとしなければ負けることはない。しかし、そこで「分かった、勝とうとしなければ良いのだな。そうすればがんに勝てるのだな」と思ったら、そこで既に取り逃がしていますと。同じことですね。矢を的に当てようとしては当たらないのです。

だから、がんを治したいから瞑想をする、では取り違えています。最初のきっかけはそれでも良いのです。しかし、いつまでも「治りたい」という欲だけなら、それでは目的地には行けないだろう思います。玄侑宗久氏は言います。

起こった事態を因果律だけで解釈することは不可能なのだと思います。そこには共時的な要因も多く関わっているはずです。いわば「ご縁」によってふらふらと揺らぎつつ事態が進展するのであれば、それを因果律的に解釈しようとすることは、迷路に迷い込むことに等しいでしょう。

「瞑想すればがんが治る」は、因果関係を考えているのです。この世の中、原因と結果が一対一になっている現象など、ほとんどないのです。「ご縁」を多くの要素が複雑に絡み合っていることと考えれば、これはまさに複雑系の思考です。

われわれ凡人には悟りは無理です。しかし、それに少しでも近づきたい。そんなときに岸本さんがどのようにして霊性に目覚め、「わたしを超えた いのち」への道をたどったのか、道案内役にしてみようかという気になります。

現代医学には限界があります。代替療法にはきちんとしたエビデンスがありません。心が身体に影響することは、このブログでもたびたび紹介していますし、楽天的な患者は予後が良いと多くの医者が感じていると言います。自分の心の有り様は、患者自身が変えるしかありません。私の印象では、心の有り様こそが、サバイバーになるための必須条件だと思っています。しかし、それも絶対確実ではない。岸本さんはこう述べます。

おおらかに構えて亡くなった人も、マジメでいて亡くなった人も、おおらかに構えて生き延びた人も、マジメでいて生き延びた人もいます。私の印象では、法則性は見られません。

法則性は見られなくても、ごくわずかの初期条件を変えることによってその後の全体の運動に大きな影響を与えることができる。単純な還元論的な法則性がないといって、特別な現象が起きないとは言えません。誰にでも治癒は可能だと信じて、前に進むしかないでしょう。

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