傷だらけの黒揚羽

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先月、高知の「モネの庭」で撮った一枚の写真が気になって仕方がない。一匹の黒揚羽が林の中でじっとしていた。ファインダー越しに見ると、羽もあちらこちらがちぎれて痛々しい。時折レストランの屋根の高さまで舞い上がるのだが、また同じ灌木の枝に降りてくる。近づいても飛び立とうとしない。

どうして気になるのかと思案してたが、ああそうだ、山頭火の後姿を連想していたのだと気付く。種田山頭火の後姿を写した一枚の写真がある。漂泊の歌人-山頭火は四国遍路の旅をしたことがある。室戸岬の空海が修行をし悟りを開いたといわれている御厨人(みくろど)窟を詠Santouka21んでいる。

いちにち物いはず波音
こんやはひとり波音につつまれて
食べて寝て月がさしいる岩穴

山頭火の後姿と黒揚羽の後姿がダブって私の記憶を呼び起したのだ。中野孝次だったか加島祥造だったか忘れたが、蝶の最後を目撃したという記述がある。突然空高く舞い上がって、やがて命が尽きてひらひらと落ちてくるのだという記述があった。この黒揚羽を見ているとそんな最期を演じようとしているような気がしてくる。それに山頭火の後姿が何となく似ている。

山頭火が蝶を詠んだこんな句もある。

てふてふ ひらひら いらかをこえた

ぬれて てふてふ どこへいく

ひらひら蝶はうたへない

癌とは闘え、死とは戦うな

命には最期がある。これだけは100%確実だし、この運命を逃れた生き物はいない。この運命から何とか逃れようとじたばたするところから迷いが生じる。老子にしろ道元にしろ、あるいはセネカなど洋の東西の思想家・宗教家はつまるところ「死とは何か、生きるとは何か」について語っているのはそのためだ。

パスカルはすべての人は死刑囚であるという喩えを持ち出しているが、すべての人間は生まれた瞬間に「百年の間に死刑は執行される、しかしその方法は伝えない」という残酷な”有罪判決”を受けているのだ。身に全く覚えがないのに逮捕され、有罪判決を言い渡され、人生という牢獄で死刑を待っている=カフカの小説『審判』にはこのように書かれている一生をすべての人、生き物は送っている。

だから、老子はこう言う。死と闘ってはいけない。だって必ず負けるに決まっているからだと。必ず負けると分かっているのになんとか勝つ方法はないかと悩むのは馬鹿げている。死は「やって来る」、やって来たら受け入れればよい。良寛はさらにすごいことを言っている。「三条大地震の見舞い」の手紙として、文政11年12月8日の山田杜皐さん宛の地震見舞いの手紙だ。

災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には、死ぬがよく候。
是ハこれ災難をのがるる妙法にて候

癌とは闘うべきだ。いろいろな戦い方がある。医者の戦い方と患者の戦い方はおのずと違うはずだ。

戦うべきだが、勝とうとしてはいけない。癌に勝とうとすれば無理が生じる。癌細胞を根こそぎやっつけようとする。癌は自分の細胞が癌化したものだ。
自分自身と闘ってやっつけてどうする? 勝とうとしてはいけない。負けなければよいのだ。負けないというのは、心のありようでもあるし、希望を失わないことでもある。また癌組織をこれ以上大きくしない治療方法を選ぶということでもある。癌組織は体の中にあっても大きくならなければ死ぬことはない。癌と共存して生きて、天寿を迎えることができたなら、私の”勝ち”だ。これが勝たないで勝つということだ。天寿まで共存するために、使える薬・治療方法はある限り使う。一つの抗がん剤を自分の体が降参するほどつぎ込んではだめだ。次の薬が使えない。抗がん剤は癌をやっつけ消滅させるのではなく、大きくならない程度に使えばよい。効き目が無くなれば次の抗がん剤に切り替える。これをバトンタッチしながら天寿を全うできるまで走り続けられるようにすればよい。

これが休眠療法(メトロノミック療法)の考え方だ。大腸癌では休眠療法の治験が走っているらしい。

山頭火は、命の生かされるままに生きている。黒揚羽は、死と闘うなんてしていない。

癌とは闘え、しかし死とは闘うな


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