「死」は科学で解明できるか?

数年前、立て続けに二人の友人をがんで亡くし、さらにもうひとりの友人が乳がんになり、仕事仲間の12歳の子どもが小児癌で亡くなったというひとりの女性が、死は科学で解明できるのだろうかという疑問を持った。そこで彼女はひとりの理論物理学者、佐藤文隆氏に手紙を書いた。

宇宙の誕生や進化について研究を進められ、なおかつ人間の存在について深い洞察をお持ちの佐藤先生は、人間の生と死をどのような実感を持って感じておられるのだろう。「死と生の意味」についてどんなお考えをおもちだろう。ぜひそのお考えをうかがいたいのです。

そして3.11をはさんで約1年間の「特別授業」の結果をまとめたのがこの本『「科学にすがるな!」――宇宙と死をめぐる特別授業』です。

「科学にすがるな!」――宇宙と死をめぐる特別授業

「科学にすがるな!」――宇宙と死をめぐる特別授業

佐藤 文隆, 艸場 よしみ
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しかし彼女の期待は、初対面から打ち砕かれる。科学に「死」の答えを見つけようとするな、と諭されるんだ。

佐藤氏は実在には3つあるという。第一は「外界」。目の前にあるコーヒーカップなどであり、第二は「内界」、カップからの光が目にはいり、それが電気信号になって脳に伝わってカップだと認識する。これも実在である。第三の実在とは、人間が社会的に受け継いできたもの、言語・慣習・文学も科学も宗教も再三の実在であるという。この第三の実在は、新しい科学的知見によって変化していく。

脳死判定が話題になるように、確かに「死」は社会的な問題ですね。生物学的には細胞も日々死んで交代しているし、肉体的に死んでも分子や原子として環境に戻るだけです。

「私」が死んだあとの「永遠の時間」において「私」は存在しなくなることが怖いのかもしれない。これについて佐藤氏はは、「時間」にもいくつもの「時間」があり、社会的な時間があるのだという。ビッグバンの前には時間も空間もなかったのだから、「永遠の時間」という考え方も錯覚です。そして偶然に、生命のできやすい環境を持った地球ができて、偶然に人間に進化した。進化の過程で人間は「けなげ」に生きてきたのです。論語に「鬼神を敬して、これを遠ざく」があるが、「死」は鬼神なんです。「死」を語るなんて無意味です。これが佐藤氏の考え方。

宗教学者の岸本英夫氏は『死を見つめる心』で、死の恐怖=自分が存在しなくなるという恐怖に打ち勝とうと格闘している。佐藤氏にいわせれば、偶然生じたものが法則に従って消滅するだけ。しかし悔しいことに原子や分子としては残るのだとなる。死んだあとは、自分が死んだと認識する自分はいないのだから、そのような馬鹿げた問題を考えることは止めておけという。

「死」があるからこそ「生」が輝いて見える。この一瞬の時間が貴く思える。仮に不死の命を貰ったとしたら、それはそれでおぞましいでしょう。死ぬことができないのですから。永遠に生きるすべはある。それは佐藤氏は、

第三の世界に名を残したいという努力です。人間を磨いて、完全に自分がなくなったあとも、第三の世界で生き続けたいと思うことです。こういう気持ちを持つことは、非常にポジティブでいいことやと思うね。死ねば物体として戻ってくることはないでしょう。でも、第三の世界は残る。死んだあとも第三の世界に伴走することが、幸せでもあり救いでもあると思うね。そのために人間を磨くのです。

だと思っている。立派な業績というわけでなくても、家族やまわりの人の記憶という第三の世界に自分が生きることができる。もちろん家族も周囲の人も100年後には誰もいない。それで良いのだ。宇宙の大きな仕組みの壁に這いつくばって進化してきた人類の、自然のなかでのみの置き方を考え」て、「今」この瞬間に与えられている奇跡のような時間を「けなげ」に生きなさい。これはもう老子や禅の世界ですね。やはりそうするしかないのです。

量子力学の第一人者である佐藤文隆氏だから、本の中では量子力学、量子宇宙、場の量子論なども分かりやすく語ってくれる。そして、そこなら「どう生きるか」という答えは、読者が探すべきだろうと思う。


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