バカボンのパパ:これでいいのだ!

本門寺近くで見つけた。これ、ニャロメか? ↓

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悟りをひらいた者をバカボンという

天才バカボン」。バカボンとは、馬鹿なボンボン、バガボンド=放浪者など諸説があるが、サンスクリット語の「薄伽梵」(ばぎゃぼん)に由来するというのが”公式”見解らしい。「薄伽梵」とは悟りをひらいた者、ブッダ、釈迦如来、お釈迦様のことであるらしい。知らなかったが。バカボンのパパが「これでいいのだ」というのも悟りの境地だ。

これでいいのだ

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他力・自力のしあわせ論─こうやって生きれば大丈夫

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バカボンのパパと読む「老子」 (角川文庫)

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断食座禅の提唱者である野口法蔵さんに『これでいいのだ』という本がある。いろいろと悩みがあっても「これでいいのだ」と唱えて、唱えながら前に進む。現状をあるがままに受け入れて、それからまた行動を起こせば良い。というか、それしか実際の対処方法はない。

がんになったら生き方を変えるチャンス

野口法蔵さんと辻信一さんの対談『他力・自力のしあわせ論─こうやって生きれば大丈夫』で野口さんはがんについてこう言っている。

医者とはそういう役目ですから、治療を医者にゆだねる人の方が間違っています。医者に行くのは患部を切り取るために行くのであって、ガンを治しに行くと思ったら間違いです。それは自分の選択の中にあります。切り取ってもらった後に、生き方と考え方を変えて、再発しないようにしないとけません。もっと人生をすばらしいものに変えるチャンスがきたわけですから。

ガンになったことが悪かったのではなく、ガンになる要因を持っていたことが悪かったのです。ガンになったらなったで、変えるチャンスです。その時に、あれこれ違う方法を探すより、生き方そのものを変えてしまうことのできた人だけが助かるのです。

がんになった。「それでいいのだ」と受け入れて、「死ぬかもしれない」「それでいいのだ」と受け入れる。受け入れることはあきらめることではなくて、これからは違う人生、違う考え方で生きるということ。それができる人だけが治る可能性があるのだ。

勘違いしちゃいけない。「よし、それじゃ考え方を変えたら治るのならそうしよう」と思ったとしたら、取り違えている。「それでいいのだ」と、なんの見返りもなく受け入れること。期待しないこと。治るかどうかは「成り行き」なのです。

断食座禅の経験から、

ずっと病気を意識していると病気は治りにくいのです。断食して病気を治すのだという思いでやっていると、なかなか効果は現れません。自分の病気のことを言わなくなったり、考えなくなったとき、からだは変わり始めます。

治りたがる人は、治ることは希なのかもしれない。

ドリアン助川さんは『バカボンのパパと読む「老子」』で「バカボンのパパは老子なのだ」と言う。老子が語る希有壮大さ、社会から離れたところで「わしは馬鹿だと思われているのだ」と自らを笑ってみせる度量、これらが老子に似ている。

老子「根に帰る」

老子第16章「根に帰る」をバカボンのパパはこのように解釈してみせる。

あれこれこまごま考えないようにして、心の中を原っぱみたいに静かに保つのだ。そうするとわしなどは、ウナギイヌやネコのレレレやいじめっ子やとにかくいろいろなものが一斉に成長して、それがまた自然の源へと帰っていくのを見ることになるのだ。

ウナギイヌやネコやレレレやいじめっ子は、どれだけ増えて大きくなっても、またそれぞれの根源に戻るものなのだ。根源に戻ることを静と言い、それはまた根源を持つ運命に従うことでもあるのだ。運命に従うことを自然の摂理である常と言い、常を知ることを明と言うのだ。

常を知らない人はついついむちゃくちゃをやってしまい、自ら運命のドブにはまりに行くようなことをする。常を知っていれば、海のようになんでも入る器となれる。それはみんなにとって公平だということであり、みんなにとって公平であれば、ほとんど王様なのだ。王様であるならそれはもう天であり、天であるということはTAOなのだ。TAOならばもう永遠なのだから、生涯アハハーンと何も心配することないのだ。これでいいのだ。

加島祥造は同じ16章「根に帰る」を次のような自由訳にしている。

心を、空っぽにしてみる。
すると、本当の静けさを感じるよ!

空っぽな心に
静けさが満ちわたると感じるとき
道(タオ)の働きに気づく。

万物は
生まれ、育ち、活動するが
すべては元の根に帰ってゆく。

水の行先は、海
草木の行先は、大地
いずれも、静かなところだ。

それを知るのが最上の智慧であり
知らずに騒ぐのは、悩みの種をつくる。
この智慧に気づくとき
ひとは初めの命を取りもどすのだ。
天と地をめぐって動く命の流れを
静かに受け入れてごらん、
自分の身の上でくよくよするなんて
馬鹿らしくなるよ。

加島訳の方が優れているけどね。

仏教の諸行無常、生者必滅の理みたいだが、老子と釈迦はほぼ同時代の人だ。

がんになったらくよくよ考えない

あれこれ明日のことを考えたり、がんで死んだらどうなるのかなどと、くよくよ考えないのだ。ま、なるようになるさなのだ。そんなことで悩むのは、バカボンのパパ以上に馬鹿なのだ。

これでいいのだ!

今日は明日のための準備期間ではない

私たちは、絶えずあることをしているが、そのあることは別の何かのためであり、その別の何かもまた、別の何かのためにやっている。今現在の行為は、常に、次に予定された目標のための手段である。私たちは50年も60年も、このような人生を送ってきた。

人間の行為は、何かを為すための「手段」でなければならない。ある目的のために今何かをする。これがあたりまえだと思ってきた。今日は明日のための準備期間であり、明日は来年のための、そして将来のために今がある、辛抱して努力すれば将来は報われる、と言われて「よい子」になろうとしてきた。

がんになれば人はふたつに分かれる。

一つは「がんを治すために、今の時間を全て捧げる」人たちであり、もう一方は、これまでの生活を見直して、「今、ここに」ある一瞬をありがたく精一杯生きようとする人たちである。もちろん、一人の人間に両方の傾向が混在する。どちらの傾向がより強いかである。

治らないがんと分かっても、今日の貴重な時間をがんと闘うためだけに費やそうとする。がんと闘うことは大事だが、闘いに勝ったとしたら何をしたいのだろうか? 勝利を収めた暁にやりたいことを、今始めれば良いではないか。

どのみち「死」はあなたを打ち負かす。それまでの時間は限られている。いつまでも「何かのための手段」に人生を費やしていては勿体ない。だから「死」を覚悟して、そして「死」を忘れなさい。「命」が喜ぶように遊びなさい。

遊びをせんとや生れけむ

哲学者は「人生の目的は何か?」との問いを立てるが、人生に目的などあるはずがない。強いて言えば「幸福を実感すること」だろうか。幸福を実感するとは「遊ぶ」ことだ。仕事でさえ「遊び心」でやっていけるならば幸福を感じることができる。

何か別の目的のための手段ではないことをする。これを「遊び」と言っておこう。別の言い方なら、そのものに「内在している価値」、それがそれであるが故に重要だという事柄を追い求めること。

何も小難しいことではない。友人とのお茶の時間、家族で楽しむ夕食。がん患者ならば、こんなことに幸福を感じることができるのです。「これをやってもらうためには、あなたにいくら払えば良いのか?」と問わなくても良い人間関係が、ありがたい。

アベノミクスは逆に「命よりも金」の世界を「取り戻そう」としている。

梁塵秘抄(りょうじんひしょう)にある

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。

の心を大切にしよう。人は遊ぶために生まれてきたのだ。

私はがん患者だから、明日のための準備よりも、今この瞬間の遊びに没頭する


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