がんの奇跡的治癒

梅澤先生のブログ「現在のガン治療の功罪」に「ガンの不思議」と題して”奇跡的治癒”(”自然寛解” “自発的治癒” “自然退縮” など、いろいろな言葉で表現される)のことが紹介されています。内容を転記することは一切許可されていないので紹介できないが、ホスピス従事者の読者からの奇跡的治癒例と先生自身の同じ体験が書かれています。

がん患者はだれでも「自分だけは奇跡的に治りたい」と思っているはずです。どうすればそれが起きるのか? 確実にこうすれば良いという答えはありません。しかし、どうやら奇跡的治癒・自然寛解が起きる人には共通点がありそうです。

奇跡的治癒例を世界に先駆けて研究したの池見酉次郎氏や中川俊二氏は、その症例のほとんどの患者に「実存的転換」というべき変化があったと報告しています。「実存的転換」の意味は中川俊二さんの言葉を借りると、『今までの生活を心機一転し、新しい対象を発見し、満足感を見出し、生活を是正するとともに残された生涯の一日一日を前向きに行動しようとするあり方』です。

「実存的転換」に関して、医師の加藤眞三さんのブログにこんな記事がありました。

人の寿命はわからないと前章で述べましたが、その最たるものは「がんの自然退縮」です。日本の心身医学の創始者である九州大学の故池見酉次郎教授は、中川博士とともにがんの自然退縮例を研究しました。この研究により池見教授はストレス学説で有名なハンス・セリエ博士のセリエ賞をとられたのです。がんの自然退縮は500から1000例に一例はあると考えられているのだそうです。

池見教授は、74人のがんの自然退縮がみられた患者さんで、精神生活や生活環境を詳しく分析できた31人をまとめています。31人中23人(74パーセント)に人生観や生き方の大きな変化があったとされています。その23人の中7人はかねてから人間的な成長度の高い人や真に宗教的な生き方をしてきた人たちであり、がんの告知がきっかけになり、永遠の命へのめざめが起きたそうです。5人は信仰をもっていた人たちの中で、がんを宣告されることによって信仰の対象としていた教祖や神仏に自分のすべてをまかせきるという全託の心境になったとされています。5人は家族からのサポートや周囲の人の温かい思いやりに包まれて主体的な生きがいのある生活へ転換が起きた人であり、6人は生きがいのある仕事に打ち込んでいった人だそうです。このように、約4分の3の人では、生きがいや生き方に大きな変化があったときに、がんの自然退縮があったというのです。

私の経験でも、その数は多くはありませんが、悪性腫瘍が治療もしないのに退縮した例を2人みています。二人とも宗教的に高い地位にある人で、がんの告知
や治療の説明を受けた後に、それを受け止め、自分自身で積極的な治療は受けないことをきめた人です。池見先生の分類では、実存的転換や宗教的目覚めがあった人にあてはまると推察されます。

プラシーボの治癒力―心がつくる体内万能薬どうすればがんの奇跡的治癒、自然寛解を得ることができるか?

短いブログで紹介できるような、手っ取り早い方法はありません。私は一冊の本を推薦したいと思います。ハワード・ブローディの『プラシーボの治癒力―心がつくる体内万能薬』です。

下に紹介したように、奇跡的治癒に関する本はいくつかあるが、理論的に解説し、現時点の知見に基づいた方法論にまで言及している著作は、これ以外にはないと思います。

私たちが、周囲から自分の健康に関する何らかのメッセージを受け取ったとき、それが大切な人間関係と結びついている場合には特に、私たちの身体はメッセージに反応する。

意味づけを変えるこうしたメッセージを受け取ると、からだは何をするのだろう? プラシーボ反応について科学がこれまで明らかにしたことを大雑把に理解する一番いい方法は、私たちの誰もが「体内の製薬工場」を持っていると想像することだと思う。

ブローディはこの本で、

プラシーボ反応という現象を解き明かし、強力な治癒効果を誰もが利用できるようにするための、明快かつ科学的価値のある理論に到達することをめざしている。

と言い、「理論編」と「実践編」に分けて役立つ理論になるようにと試みています。

プラシーボ反応を完全にコントロールすることは難しいにしても、それを上手に利用して治癒を早めたり、がん細胞を完全に消せないにしても、健康を高めたり、好調を維持したりできる可能性はある。「体内の製薬工場」を利用するための方法はマスターできるのである。しかし、

心とからだとの、この複雑なつながりについて考えるとき、畏怖と驚嘆の気持ちを抱き続けることは絶対に必要だと私は考えている。プラシーボ反応を予測可能な、自分の意のままになるものとして扱うようになったら、皮肉なことにプラシーボ反応は私たちを助けてくれなくなるだろう。助けてくれるとしたら、ひとつには私たちがそれを神秘的だと思い続けているかぎりにおいてなのだ。

と、重要な視点を強調しています。

これは、私がこのブログで「治りたがる人は、治ることが希である」とか、「”希望”を持つことは大切だが、それが”執着”になってはいないか? 」あるいは、老子を引用して「求めない、そうすれば与えられる」「治る治らないは、成りゆき」などと書いたことと共通しています。

「希望を持つ」ということは大事なことだが、ややもすると希望ではなく「執着」になってしまう。「私の癌は治癒するだろう」と希望するのはよい。治癒しないかもしれないが、希望を持とうということ。「私は癌を治す」さらには、「私は癌を治さねばならない」「絶対に治してみせる」となると「執着」だ。
一見ポジティブシンキングで、こちらの方がより積極的で良さそうに見えるが、自分の希望=執着がかなわなくなったときにポジティブシンキングは脆いのです。

老子の言葉に「勝とうとしなければ負けることはない」というのがあります。癌の治療にも同じことが言える。「何が何でも癌に勝ってやる」という闘争心は、ちょっと躓いたときに疑心暗鬼になりやすい。「今の治療法で大丈夫だろうか。なにか魔法の特効薬があるのではないか。気持ちで癌が治るはずがない」ということになります。

「そうか、勝とうとしなければ良いのだな。よし、今日から勝つという気持ちは捨てよう。そうすれば癌が治るに違いない」 このように考えたら、あなたは既に取り逃がしています。
勝つか、治るかどうかは「成り行き」なんです。成り行きだから目標にしてはいけない。目標にすることは「執着」することです。また、「勝とうとするな」とい
うのは、現代医学をすべて拒否して、心のあり方や食事療法などの代替医療で治そうというのではありません。ここは微妙なところです。治す努力はしなければなりません。しかしそれだけに執着しては治るものも治らなくなるのです。

癌に勝つとか負けるとか、そんなことから心を遠ざけて、今生きていることに感謝して喜びとともに過ごすことです。負けるかもしれません。明日死ぬかもしれません。それでいいじゃないか。というのがサイモントンでありペルティエであり、老子、仏陀、道元、良寛などです。洋の東西を問わずに偉大なマスターはみんな同じことを言っているのです。(2009年4月9日の記事より)

 


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