がんとマインドフルネス瞑想(4)食べる瞑想
瞑想と言われると、目を閉じて横になり、鼻の先端から入る空気を意識して呼吸に意識を集中する。そうしたイメージを思い浮かべることが多いでしょう。
しかしそれは瞑想の形のほんの一部です。瞑想とは、生活の全てにおいてマインドフルで気づきのある状態です。
そして、何もしないで、何もしないことの素晴らしさを感じることです。
静坐瞑想、歩く瞑想、様々な瞑想のスタイルがあります。これが正しいとか、こうでなくてはならないというのは瞑想にはありません。
ジョン・カバットジンの『マインドフルネスの始め方』に付属する CD には、一番最初に「食べる瞑想」が収められています。
一連の公式の瞑想の中から、一番最初に「食べる瞑想」が選ばれています。
この瞑想においては、準備としていくつかのレーズンを用意するように言われていますが、なくても構いません。想像上でレーズンを思い浮かべてみれば良いのです。
別の方法でも、食べる瞑想はできます。
食べる時、食べることに専念するようにします。
食べたり飲んだりしている時に、他の事をしないようにします。きちんと座って、自分が口にするものをゆっくりと楽しみます。五感のすべてを食べているものに集中します。食べ物の色や形、表面の様子などを眺め、口に入れて香りや味を味わいます。食べたり飲み込んだりする時に出る音にも注意して聴きます。
現代人は年中「ながら行為」をする習慣がついています。食べることもその一部になっているのです。歩きながら食べ、運転をしながら音楽を聴く。食事をしながらテレビや映画を見て、パソコンで仕事をし、スマホを閲覧しています。
つまり現代人は、食べることさえ時間の浪費に思えるほど、ながら行為をせずにいられない。そうなっているのです。
あたかも、長く続くToDoリストの項目を、何個線で消したかで自分の価値が決まると思っているかのようです。
食べる行為自体はその人に収入もノーベル賞ももたらしません。だから価値がない行為のように見えるのでしょう。
食べ物に注意を払っていなければ、その食べ物はそこにないのも同然です。
マインドフルに、気持ちを込めながら食べれば、たとえ一口でも食べることが豊かで多彩なものになります。
禅僧のティク・ナット・ハンはこのように書き記しています。
みかんを食べても、本当の意味で食べていない人たちがいる。彼らが食べているのは、悲しみ、不安、怒りであり、過去や未来である。心と体がひとつになる「今」という時に、本当に存在していない。単に食べ物を楽しむことさえ、何らかの訓練が必要である。食べ物というのは我々に栄養をもたらすために広大な宇宙によって与えられたもので、言ってみれば奇跡なのです。
マインドフルネス瞑想とは、生活の一つ一つの瞬間において、それに意識を集中し、覚醒していることです。心が過去や未来を徘徊しているのではなく、「今、ここ」の瞬間に存在する。その状態をマインドフルと言うのです。
道元の『正法眼蔵』には、トイレでのお尻を拭く作法に至るまで、事細かに順番を記されています。これは修行生活の全てにおいて「気づき(マインドフル)」を求めているのです。そしてそれが禅の全てです。