『哲学者とオオカミ』がん患者&生&死 (2)

Mark_rowlands_narrowweb_2ブレニンは脾臓がんが転移して死んだ。フランスでブレニンと過ごした最後の一年は変化に乏しい毎日であったが故に、宝物のような時間だった。「ブレニンは死ぬことで何を失ったのか」という疑問にローランズは立ち向かう。

ギリシャの哲学者エピクロスは死について「私たちが生きている間は、死は起こらない。なぜなら死は生の限界であり、生の限界は生の中にはないからである。また私たちが死ねば、私たちは存在しないのであるから、死は私たちに害を及ぼすことはもはやできない。」したがって、死を恐れることはないと言っている。

しかし、私たちはこのエピクロスの論拠のどこかが間違っていると感じる。少なくとも私たちは死によって何かが奪われるのではないかと考える。死が生を奪うのか? そんなことはない。文学的には「死によって生が奪われる」という表現はあるかもしれないが、生の行き着く先が死であり、死は生の結果ではあっても生を奪うのではない。死んで存在しない私たちから何を奪うことができるのか。

死は私たちから未来を奪うことによって害を及ぼすのだろうか。ブレニンが水を飲みたいと思ったとき、部屋の隅の水入れまで歩いて行く。少なくともその時間は生きていなければならない。この意味での未来は多くの生き物に存在している。しかし、私たち「サル」は欲望・目標・計画という考え方で未来を持つことができる。そしてこの意味の未来の可能性を失うから、私たちの死は他の生物の死よりも大きな害を及ぼすことになると考えている。未来を持つためには人生において投資が必要である。投資は私たちが20歳前後になるまでの教育を受けることを考えれば明かである。運動選手は練習に励み、音楽家はレッスンに明け暮れる。人が死ぬときに失うのは、それまでの人生でしてきた投資の総額である。人の死は他の動物よりも失うものが大きいから、投資額が大きいから、人間にとっての死は他の動物よりも悪いのだ。

哲学の冒険 「マトリックス」でデカルトが解るマーク・ローランズは前著『哲学の冒険 「マトリックス」でデカルトが解る』においてこのような考えを信じていると公にした。(第9章 『ブレードランナー』で死の意味が解る)

死についての、より多くの投資を失うとするこの考えは、根底に、ある時間概念を含有している。時間を、過去から現在を通って未来へと飛ぶ矢として考える。矢には欲望・目標・計画が載っている。矢は標的に当たらなければならない。生きることの意味は欲望・目標・計画と結びつくべきであり、その機能であるべきだ。死は飛んでいる矢を切断することで害を与えるのである。

しかし今、ローランズは「自らの洞察力のなさとサル的な偏見にゾッとする。投資などとはなんとサル的であることか」と言う。私たちは未来に投資をしてきたから、オオカミよりも尊いとは言えない。

私たちは、人生の時間を一本の線だと思っている。そして「今この瞬間」は、過去に起こったことの記憶とこれから起こることへの予想からできている。したがって瞬間は前後にずらされ、時間の中に分散される。瞬間は絶えず跳び去っていく。だから私たちに「今」はない。生きる意味は決して瞬間の中にはない。飛ぶ矢の先に生きる意味を捜そうとせざるを得ない。私たちは、未来をどう生きたいかというビジョンを持っているがゆえに、「今」は手から滑り落ちていく。本当はしたくないことをして過ごす時間が圧倒的に多い。私たちは「今」という瞬間をそれ自体として楽しむことは決してできないようにできている。「サル」だからである。

人生の時間が直線ではなく、輪だと仮定しよう。ニーチェのデーモンが言ったように永劫回帰だと。同じ人生がそっくりそのまま、ありとあらゆるものが細大漏らさず再現され、永遠に繰り返されるのだと。そのとき、人生の意味は直線上のある決まった点へと向かう進捗の中に存在することはできない。すべての瞬間が、ある地点への通過点ではなく、それ自体で完成し、完結する。そうなると人生の意味は、遠い未来にではなく、「今ここ」にある瞬間に見出さざるを得なくなる。時間の矢の終着点への拒否は、わたしたちを目新しいもの、時間の矢を逸脱したあらゆるものの中に幸福を求めるようとする。しかし、どのような逸脱も、新たな時間の矢をつくりだすだけであり、わたしたちの幸福の追求は退行的で無益である。

オオカミの時間は、線ではなく輪である。時間が輪なら、「二度とない」はない。永劫回帰である。「二度とない」の感覚のないところには、喪失の感覚もない。オオカミにとって、死がやってきたらそのときが本当に生の限界、人生の終わりなのだ。わたしたちは、線上の時間を生きているから、瞬間は後へと飛び去ってゆく。だから、時間の矢の終着点へと向かう生は、死を含んだ生である。死はわたしたちの人生の限界ではなく、死を常に抱えて生きているのだ。

もし自分が癌を患ったらどうするだろうと想像して、ブレニンと比べずにはいられなくなる。ブレニンにとっては、癌は瞬間的に訪れる苦痛だった。ある瞬間にはブレニンは調子が良いと感じた。けれども次の瞬間、例えば一時間後には、気分が悪くなった。それでも、それぞれの瞬間はそれ自体で完成していて、他の瞬間とはなんの関係も生まなかった。

一方、わたしにとっては、癌は時間の苦痛であって、瞬間の苦痛ではないだろう。癌への恐怖、人間にとって深刻なあらゆる病への恐怖は、時間を貫いて広がっている事実だ。恐怖は、癌がわたしたちの欲望や目標や計画の矢を断ち切り、しかもそれをわたしたちが知っているということにある。わたしだったら、家にいて休んだだろう。たとえ、あのときは気分がとても良かったとしても、家にいて休んでいただろう。人が癌にかかったときには、そうするのだ。

わたしたちは時間的な動物だから、深刻な苦痛は時間的な災いだ。災いへの恐れは、災いが時間を貫いてすることに存在するのであって、災いがそれぞれの瞬間にすることにあるのではない。だからこそ、災いはわたしたち人間に対して、瞬間の動物に対してはできないような支配力を持つのだ。

オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとても難しいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。

サルの幸運はいつかは必ず尽き果てる。「サル」的なものは、必ずあなたを見捨てるだろう。人生にとって重要なのは、これらがあなたを見捨ててしまった後に残るものなのだ。

ローランズがブレニンと過ごした年月で到達した、こうした死への感覚は、東洋に住むわたしたちには目新しいものではない。かつて「彼岸花と道元の死生観」で触れたように、

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。

しるべし、薪は薪の法位に住して、さき
ありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごと
く、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。

このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、
法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春
の夏となるといはぬなり。(現成公案)

道元においては生と死は前後関係ではない、因果関係でもない。ただ自ずと独立してものであり、「今ここに」の瞬間は飛び去らない。「今日の我は今日の法位に住して、前後ありといえども前後裁断せり」なのである。

わたしたちサルは、ハイデガーが言うように「自分は何者なのか」とか「自分にはどのような価値があるのか」を問うことができる存在であり、それ故に他の動物より優れていると考えがちである。過去をふりかえって、未来を計画する。それが尊いのだと。しかし計画するとは、幸福を量で測り、計算することである。サルは、だから瞬間に生きることが苦手であり、時間の矢の術縛からなかなか抜け出せない。

オオカミは、サルにとって価値のあるものが愚鈍で無価値であることを教えてくれる。人生でもっとも重要なものは、計算ずくでできるものではないことを。真に価値のあるものは、量で測ったり、取引できないことを教えてくれる。


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