シン・ゴジラの進路

日経ビジネスの『「シン・ゴジラ」、私はこう読む』がおもしろい。

最近のもので、『地図で徹底図解! ゴジラは上陸後、こう進んだ』で蒲田付近に上陸後どのように進んだかを検証している。それによると、多摩川から呑川に入り、あやめ橋で上陸してそのまま東邦医大通りを北上。

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(我家は矢印付近)つまり、この通りに面している我家は確実に「破壊」されている。でもご安心ください、家族はみな無事ですから。(*^▽^*)

実は興味深いのは、映画を見ても気になっていたのだが、冒頭で、無人で漂流するプレジャーボートに海上保安庁の職員が乗り込んでいく。揃えて置かれた靴が残されており、テーブルの上には折鶴と詩集『春と修羅』が置かれているシーン。

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なぜ、宮澤賢治の『春と修羅』なんだと、ずっと思っていた。

『春と修羅』から見えてくるシン・ゴジラの核心

ではより興味深く記事にされている。

折り鶴は、これにゴジラの細胞内の化学反応、あるいは細胞のパスウェイらしきものが書かれていて、これがヒントとなってゴジラを止めることができたのだった。

『春と修羅』は何の暗示なのか。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)

賢治は「私(も含めて生命は)有機体のひとつの現象だという。命は「存在」するのではなく、有機体の「現象」だと。そういえばエンゲルスは「反デューリング論」の中で「生命とは蛋白体の存在様式である」と規定していた。

ゴジラは体内で、太陽と同じ核融合反応を体内で行い、そのエネルギーを使って活動をしているのだが、核反応利用の、ひとつの「現象」としてゴジラが生じたと見ることもできるのかなと。制御できない核反応の負の具現化がゴジラという「存在様式」であると言えないか。

また、生命=有機体の現象(タンパク質の存在様式)であり、ゴジラ=核反応の現象、との対比ができるかもしれない。

ゴジラが自衛隊やアメリカ空軍の爆撃を受けても何のダメージを受けないのは、ゴジラは「存在」ではなくて「現象」だからだ。折り鶴に記された反応式から核融合反応をストップさせ、ゴジラを止めることができた。ヒントは、折り鶴と『春と修羅』にあったわけだ。

さまざまな見方、考え方のできる映画ですね。

ま、私の勝手な解釈でした。


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