今日の一冊(105)「死」とは何か:イェール大学で23年連続の人気講義

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版

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シェリー・ケーガン
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死は身近にある

シンギュラリティが現実のものになれば、人類は「不老不死」を手に入れることができる考えている人もいる。

私は、シンギュラリティは決してやってこないと考えているが、テクノロジーや科学や医学の進歩で、それが SF ではなく、現実の可能性として語られ始めている。

一方で、高齢化はすでに大きな社会問題になっている。遺伝子検査などで、将来病気になる可能性や余命を予測できる時代に入りつつある。

臓器移植、植物状態、脳死、延命措置、尊厳死、安楽死、リビングウィル、生前整理、終活、遺言など、いま「死」に関連した話題には事欠かない。少子高齢化社会に突入し、週刊誌の読者層が高齢化するにつれて、毎週毎週こうした話題が週刊誌を賑わしている。

がん患者とくに膵臓癌患者にとっては、「死」は常に目の前にぶら下がっている、無視することのできない現実である。

シェリー先生は冒頭で次のように書いている。

もしも死が本当に一巻の終わりならば、私たちは目を大きく見開いてその事実に直面すべきでしょう。自分が何者で、めいめいがが与えられた”わずかな時間”をどう使っているかを意識しながら。

死は本当に悪いことなのか?

シェリー先生の死についての講義は、次の大切なことを前提としています。それは、二元論的な魂の存在を認めない立場、つまり唯物論的立場に立っているということです。140年前に、エンゲルスが「反デューリング論」で述べたように、「生命とは、タンパク質の存在の一形態である」という立場です。

つまり、人間は高度な機械である。機械であるからには、いつかは壊れる。壊れた機械はその持っていた機能も当然喪失してしまいます。死の後には、人間の持っていた機能は残らないという、自明のことを前提としています。死を考察するの際して、宗教的な価値観は持ち込まないとの立場です。

「死」はなぜ悪いのか。残された家族にとって死は悪いものには違いありません。この本では「本人にとって死はなぜ悪いのか」と問うています。

死が本当に”一巻の終わり”ならば、死は本当に悪いものなのだろうか。もちろん大方の人は、死は悪いものであると端から思い込みがちだが、どうして死が悪いものであり得るのかについては、哲学的な難問が伴う。じっくりと考えなければならない。

私の生き方は、やがて死ぬという事実にどのような影響を受けてしかるべきなのか。必ず死ぬという運命に対して私はどのような態度をとるべきなのか。例えば死を恐れるべきなのか、やがて死ぬという事実に絶望するべきなのか。

こうした難問に、シェリー先生は一つ一つ丁寧に分析して答えていく。

死を恐れるのは間違った対応

シェリー先生は、死に対する一般的な見方は、最初から最後までほぼ完全に間違っていると主張する。

魂は存在しないし、不老不死は良いものでないことを納得してもらおうと試みる。そして、死を恐れるのは、実は死に対する適切な反応ではないこと、恐れることは間違っていると考えている。

死とは何か。シェリー先生の哲学的回答は単純である。死とは、身体が作動し、それから壊れる、死とはただそれだけのことなのだ。

では「ただそれだけのこと」がなぜ悪いのか?

自分という存在がなくなることが悪いことなのか?

「私が存在しない」のは、どうして私にとって悪いことであり得るのか。何しろ存在しないというのは文字通り存在しないこと、に他ならないのだから、誰かが存在しない時に、その人にとって悪いことなどどうしてあり得るだろう。

もし誰かにとって悪いことがあるのなら、その人はそこに存在していて、その悪いことに遭わなければならない。だから、死は”絶対的”に悪いはずがない。

しかし、相対的に悪い場合がある。いま自分が得ているもののために、手に入れ損なったものがある。経済学者が”機会費用”と呼ぶこの現象のせいで、物事は悪くなりうる。人はそれをしている間にもっと良いものを手に入れ損なっているから悪いという風に考える。

これを使って、死に対しては「略奪説」の考え方で説明できる。

なぜ死は悪いのか、なぜなら死んでしまったら存在しなくなるからだ。そして存在しないのは悪いとなぜ言えるのかと問えば、答えは人生における良い事の数々が味わえなくなるからだ。もし自分が存在しなくなれば、生きて存在してさえいれば得られるものが得られなくなる。死が悪いのは、人生における良いことを奪うからなのだ、とシェリー先生は主張する。

自殺について

福生病院の透析患者が、透析を中止して死にいたったことでは賛否両論が賑わっている。確かに難しい問題には違いない。透析は延命治療である。透析を中止するのは、自死を選ぶということであり、患者の尊厳と医療の在り方が関わってくる。がん患者でも、似たような状況に対応せざるを得ないことがある。

抗がん剤治療も延命治療であり、得られる利益と副作用やQOL低下などの不利益を天秤にかけて、無治療を選択する場合もあり得る。これも一種の自死である。

シェリー先生の自殺に対する考え方は明瞭だ。

合理的に状況を評価し、死んだ方がマシだと判断し、その件をよく考え、慌てて結論を出さず、確かな情報に基づいて、自由意志による決断を下し、その背景にきちんとした理由もあるというケースがあり得る。

自殺は常に正当であるわけではないが、正当な場合もある。

とはいえ、自殺しようとする人に出会ったらどうするべきなのか? しつこいほど念には念を入れ、その人が苦悩に苛まれて振舞っているのであって、明晰に考えているわけではなく、情報に通じているわけでもなく、あまり有能なわけでもなく、それなりの理由があって行動しているのでないに違いないと、まず想定するべきである。最初には懐疑的に考えることだ。

そのうえで、相手がよく考え、妥当な理由を持ち、必要な情報を得ていて、自分の意思で行動していることを確信できたならば、その人が自殺することは正当であり、本人の思うようにさせることも正当だと思える。

福生病院の事件(事件と言えるかどうか疑問だが)についても、シェリー先生の考えが参考になるに違いない。

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