余命一年 落語家になる

余命一年 落語家になる ~楽しいことはラクなこと~

37歳の若さでステージⅣの十二指腸がん、膵臓がんになり、余命一年
未満と告げられた街道徳尾さんの本『余命一年 落語家になる~楽しいことはラクなこと~』があります。告知後は部屋に閉じこもっていた著者が、「一年でやりたいことは何だろう?」と考えたとき、気になった新聞記事をきっかけに落語家養成講座に入門。5歳から7回の手術、膵頭十二指腸切除術は8回目。「もう辛いことはたくさん、これからは楽な、楽しいことだけを」との思いでアマチュア落語家になります。

彼女も「がんになって良かった」と感じている患者のひとりです。もちろん「よかった」という思いだけがあるはずはなく、辛いこともいやなことも、後悔もあり、しかし、やはり『がんになって良かった」という部分が、確かに私にもあります。がんにならなければやらなかったこと、「いつかはきっと」と考えていたことを、がんの告知を受けて残されて年月を考えたとき、思い切って踏ん切りを付けてできることがあります。これが脳卒中だとか交通事故であれば、そんなことを考えている時間はありません。また、「死とは何か」「ヒトはなぜ生きているのか」など、人生や生命についても考える時間的余裕があります。だから、私も「がんになって良かった」と思うひとりです。

今日の毎日新聞に、最近の彼女のインタビュー記事があります。

もうひとつの風景:2010家族点描/7 進む勇気忘れず、高座へ
 ◇末期がん告知後、閉ざした心 初めて聞く落語に魅せられ、養成講座受講

 

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 「体調を聞かれたら、『おかげさまで順調に弱ってます』って答えてるんです」

 街道徳尾(かいどうのりを)さん(39)=福井県鯖江市=は、ベッドの上で屈託なく笑う。アマチュアの女性落語家。福井市内の総合病院のホスピス病棟に、昨年10月から入院している。

 来月には地元で、半年ぶりの高座を控える。「つとまるか不安もある。でも、気合を入れていかんと」と、扇子を振っておどける。見舞いに来た両親と弟も、つい笑顔に誘い込まれる。「余命数カ月」の告知から、2年半が過ぎようとしている。

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 5歳の時、小腸にポリープが見つかり、27歳までにポリープ切除など7回の手術を重ねた。腸は約1メートル短くなった。

 福井市内の広告会社でグラフィックデザイナーとして働いていたが、07年春から激しい腹痛が続き、名古屋市内の大学病院に入院。十二指腸と膵臓(すいぞう)に悪性の腫瘍(しゅよう)が見つかり、リンパ節にも転移していた。「ステージ4」(末期がん)と告知された。

 通算8回目の手術は、膵臓と胃の一部を摘出するなど13時間に及んだ。術後、医師は「(余命は)数カ月単位で考えてほしい」と話した。

 退院後、理容店を営む実家に戻ると、2階の自室に鍵をかけて引きこもった。一人涙ぐんだり、がんの本を読みふけった。両親や弟に会うのは食事の時だけ。ささいなことでも声を荒らげ、つらく当たった。「死ぬまでに何ができるだろう」と焦りだけが募った。

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 気になる新聞記事があった。大阪市内にできた落語の常設小屋「天満天神繁昌亭」が開く落語家の養成講座。肝臓がんを克服した男性受講者を取り上げ、《落語と出合い「がんになって良かった」と思えるようになった》とコメントを紹介していた。

 試しに大阪の繁昌亭を訪れ、初めて落語を聞いた。幽霊がばくちをする噺(はなし)「へっつい幽霊」。笑福亭松喬さんの巧みな話芸にどんどん引き込まれ、涙を流して笑った。

 「つらいことは、もうたくさん。おもしろいことだけを考えて生きていきたい」。すぐに「入門講座」に申し込んだ。

 08年4月から半年間、大阪に月2回通った。午前9時半から始まる講座に間に合うように、母ハル子さん(62)は朝3時に起き、弁当を作った。けいこは着物姿で受けるため、祖母房子さん(85)は前夜から実家に泊まり込み、着付けを手伝った。

 徳尾さんは滑稽(こっけい)噺「道具屋」を覚えると、房子さんとハル子さんを練習に誘った。自宅近くの公園の芝生に2人を座らせ、3回演じた。引きこもりはなくなっていた。

 発表会には親族が総出で駆けつけ、客席で見守った。めくりには「天神亭楽々」。講座の呼びかけ人、桂三枝・上方落語協会会長が徳尾さんの病気を知り、「落語をいっぱい楽しんで」と命名してくれた。

 受講者のリレー公演で徳尾さんの出番は1分だったが、ハル子さんは心配で見ていられず、終わると目頭を押さえた。房子さんは「何も言うことない」と抱きしめてくれた。

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 09年春までに「中級」も修了。小学校や病院、がんの患者会、老人施設などから依頼を受けるようになり、高座にあがった。噺の枕に自分の病気も織り込む。がん患者からは「生きる勇気をもらいました」と声をかけられた。

 ホスピス病棟に入院してからは、体調は一進一退が続く。体重は以前の半分の30キロ台まで落ちた。仕事は職場復帰できないまま退職し、5年間交際した婚約者とも破談になった。がんは多くのものを奪ったが、家族の大切さを教えてくれたのもがんだった。

 「誰も明日のことは分からない。私は余命を教えてもらったおかげで、残りの人生をどう生きるか、考えることができた。一歩を踏み出す勇気を忘れずにいたい」【清水優子】(毎日新聞 2010/1/8)より


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