今日の一冊(94)『医療現場における行動経済学』


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タイトルだけを見ると「経済学の本?」と思われるかもしれませんが、書店でも経済の棚よりは、むしろ医学書の棚に置いた方がよい本です。

患者が合理的に判断することは難しい

インフォームド・コンセントは、医者が患者に医療情報を提供して、患者が治療の内容や後遺症・副作用の可能性について十分に理解したうえで、医者と患者が治療の方針について合意して意思決定をしていくというものです。

その前提として、医者も患者も”意志決定においては合理的に判断する”ことが期待されています。これは伝統的な経済学理論において、人間は合理的に判断し、選択可能な生き物であるという考えと同じです。

しかし、意思決定が非常に複雑で高度なものになった場合においても、患者に合理的な意思決定ができるであろうか。むしろ、偏った判断をする患者が普通なのではないだろうか。

行動経済学では、人間の意思決定にはバイアスが存在すると想定しています。

行動経済学では、人間の意思決定には、合理的な意思決定から系統的に逸脱する傾向、すなわちバイアスが存在すると想定している。そのため、同じ情報であっても、その表現の仕方次第で私たちの意思決定が違ってくることが知られている。医療者がそうした患者の意思決定のバイアスを知っていたならば、患者により合理的な意思決定をうまくさせることができるようになる。また、医療者自身にも様々な意思決定におけるバイアスがある。そうしたバイアスから逃れて、できるだけ合理的な意思決定ができるようにしたい。患者も行動経済学を知ることで、自分自身でよりよい意思決定ができるようになるだろう。

インフォームド・コンセントが一般的になり、患者の権利は確立される方向にあるが、一方で、説明だけして、後の意思決定は患者や家族にゆだねてしまうインフォームド・チョイスの傾向が強まってきたとも言えるのではないだろうか。

告知直後の患者に対して、「膵臓がんで使える抗がん剤は3つあります。どれにしますか?」と言われたという患者があとを絶たない現実がそれを示している。

命がかかった治療において、当事者の患者に合理的に判断しろということは、非常に難しいことなのです。それを前提にして医療現場で対処する必要があります。

医療者が勝手に、「進行がんの患者というものは手術を受けたら、化学療法を受けるという標準治療を受けるのが当然で、丁寧に説明さえすれば、合理的に判断して、標準治療のレールに乗るはずである」と考えるのは、誤った見通しなのです。

医者も患者もバイアスは避けられません。しかし、どのようなバイアスに陥りやすいのかを知っていれば、自分の判断の際により正しい選択ができることになると思われます。

この本では、医療現場でのがん治療を題材にして、陥りやすいバイアスを説明し、対応方法を述べています。

次のようなバイアスがあるといわれています。

  • サンクコスト・バイアス
  • 現状維持バイアス
  • 現在バイアス
  • 利用可能性ヒューリスティック

例を見てみよう。

サンクコストの誤謬

主治医「胸に水が溜まって呼吸が苦しいのだと思います。以前にも申し上げましたが、心臓が弱ってきています。」

患者(少しゼーゼーしながら)「トイレに行くのも大変だったので、そうだろうなと思っていました。」

主治医「抗がん治療をこれ以上することは、さらに心臓に負担をかけるので危険だと思います。抗がん治療は中止した方がよいと思います。抗がん治療は中止しても、うまく過ごすことができるように呼吸のきつさの治療は続けていきましょう。」

患者「先生、ちょっと待ってください。確かに心臓が弱っているのだと思いますが、今までも多少の抗がん治療の副作用がありましたけれど大丈夫でしたよ。抗がん治療をしないでこのまま最期を待つなんてできないです。」

主治医「がんでなくて、心臓が原因で倒れてしまいますよ。」

患者「そこを何とかならないでしょうか。お願いします。」

主治医「……。」

よくありそうな会話ですね。

この乳がん患者は、10年にわたって体のあちこちにがんの転移がみられ、そのたびに薬を変更し治療してきた。転移をしても治療によってその都度がんは小さくなっていたが、ここ数カ月、がんは進行し、さらに持病の心臓の病気の悪化のため、患者は夫に連れ添われて車いすで通院している。

この患者が抗がん治療をやめたくない理由は、10年間もつらい治療をしてきたのに、いまさら中止すると、これまでの治療が無駄になるという思いがあります。これは、行動経済学でサンクコストの誤謬と呼ばれているものの1つです。サンクコストとは、埋没した費用という意味で、過去に支払った費用や努力のうち戻ってこないもののことを言います。

10年間抗がん治療をしたという事実は、これからの治療法を選択する際に医学的にはまったく無関係な状況です。今考えるべきことは、こらから先のことだけということを理解してもらうよう、医師は患者に働きかけねばならない。過去のコストよりも将来の費用と便益で考えるように促すのである。患者も、ここまで治療してきたのだから途中でやめるのはもったいない、という感情を捨てて、過去の抗がん治療はすでにサンクコストになっているのだから、今考えるべきことは、これから先のことだけというふうに考えることが大事だと思います。

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利用可能性ヒューリスティック

看護師をしている46歳の女性患者が、乳がんが再発し骨転移した。胸椎にも転移、左鎖骨上リンパ節転移、多発肝転移が見つかっている。担当医は、骨転移への放射線療法とともに、全身化学療法を勧めた。

就活中の長女と受験を控えた長男がおり、子どもたちの世話をしたいと思っている。また教育費がかさみ、住宅ローンを抱えているために、彼女が働かざるを得ない事情もある。

6ヶ月の経過後、肝転移はサイズ個数ともに憎悪し、脊髄膜に播種も見られるようになった。

担当医は、患者の余命が月単位であると考えており、長男の受験まで日常生活動作が自立して行える状態を保って生存できているかはわからないと予測している。そこで、担当医は、上記の考えを踏まえて病状説明を行った。「全身化学療法を行ったが、病状は増悪しており、髄膜播種もあり、積極的治療の方法がない」ということを伝え、緩和ケアを勧めた。

患者は、その説明を受けてインターネットで調べたところ、東京のクリニックで第 5 世代の免疫療法があることを知った。そこで外来受付に対して、そのクリニックへの診療情報提供書の発行の請求を行った。担当医もインターネットで調べてみたところ、そのクリニックの平均的な治療法は、 2 週間ごとのワクチン投与であった。 1 クールにつきワクチンを 6 回投与するという。治療費は 1 クールで 300 万円+ α であった。

これは行動経済学では「損失回避」と言われている。がん終末期の患者にとって、緩和ケアを選択することは、ある意味で損失を確定することと同じである。

がん終末期の患者は、たとえ積極的治療が失敗して大きな損失を被るとしても、1%でも健康状態を維持できる可能性があるならその選択肢を選ぶ、というようにリスク愛好的になっているのだと考えられる。これが、リスクの大きな積極的医療を選ぶことについての行動経済学的な解釈である。

また、高額な免疫療法クリニックなどが広告に使う「少数の法則」や「利用可能性バイアス」も影響している。

小さな標本では、大きな標本に比べて極端なケースが発生した場合の平均値への影響が大きいため、極端なケースを過剰に信頼してしまうことが「少数の法則」である。症例の少ない治療法において、極端によい例だけを取りあげて宣伝に使う手法は、患者を誤解させるのには手っ取り早い手法である。本屋に行けば、そうしたがん治療法の書籍が満載である。

利用可能性ヒューリスティック とは、すぐに手にはいる情報を重視してそれだけで判断してしまうことを言う。インターネットで検索して、「がんが治った」という治療法に飛びつくのがこの例である。

代表性ヒューリスティックもある。これは、最も代表的に見える結果と人物描写が結びつくと、合理的推論ではなく他の要素を無視して、つじつまの合ったストーリーに基づいて判断してしまうことである。つじつまの合ったストーリーの大半は、必ずしも最も起こりやすいわけではないが、もっともらしくは見える。よく注意していないと、一貫性やもっともらしさと起こりやすさ(確率)を混同してしまう。

合理的選択=標準治療ではない

本の著者の多くはがん拠点病院の医師たちである。そのため、合理的選択=標準治療との文脈で書かれている例が多いが、これは必ずしも合理的選択とは言えないときもある。

たとえば、QOLと抗がん剤の延命効果をよく考えて、無治療を選択することも、その患者にとっては「合理的な選択」のはずである。

「あとは緩和で」と言われたらそれを素直に選択することだけが、合理的選択と言えるだろうか。もちろんそれを選ぶことで、確率的には残された時間をQOLを保って過ごすことができると思われる。しかし、標準治療を無視せず、治療に悪影響を及ぼさないのなら、経済的に可能であればそれ以外の自由診療の治療法を、1%の可能性にかけることも「合理的な選択」と言える場合もあるはずである。

もとあれ、患者の判断にはバイアスがあり「合理的には考えない」ものだと思っていた方が、実際の診療現場の実情には近いだろう。バイアスがあることを理解した上で、破滅的な選択をしないように気をつけることだろう。

本書は医療者向けに書かれたものではあるが、がん患者や家族の立場では冷静に判断ができるとは限らない。だからこそ、患者が窮地に立たされた時にどのような心理状態になりがちなのか本書を通して知っておくことは、今後の治療法を選択する際の役にたつに違いない。

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