今日の一冊(99)『QOLって何だろう』

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【日 時】2020年1月18日(土) 13:30~17:00(開場・受付:13:20ごろ)
【場 所】京急本線 京急蒲田駅東口から徒歩3分、JR蒲田東口から徒歩13分 大田区産業プラザ3階 特別会議室
【対 象】膵臓がん患者とその家族、遺族
【参加費】1,000円(会場使用料及び資料代)
【定 員】 80名
【内 容】
●講演:押川勝太郎先生「がん治療の心得は登山と同じと知ってましたか?~トラブルを織り込んだ先読み能力が寿命を伸ばす~」
●患者さんどうしの情報交換会~フリートーキング

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生命倫理学を専門とする北里大学一般教育部教授 小林 亜津子氏が、QOLと医療、幸せとは何かを一緒に考えます。

QOLって何だろう (ちくまプリマー新書)

QOLって何だろう (ちくまプリマー新書)

亜津子, 小林
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発売日: 2018/02/06
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QOLはQuality of Lifeの略語で、「生命の質」や「生活に質」、あるいは「人生の質」とも訳される生命倫理学のキーワードです。

「生命の質」と言えば、生きることの意味や価値が問われ、人間の生命の尊厳や、苦痛のない「いのちの状態」が問題になります。

「生活の質」と表現すれば、病気を抱えながらも、できるだけ普段通りの生活を送れることや、自立して生きられることを目指そうとし、「人生の質」なら、その人の「生きがい」、自分らしく生ききること、自分の人生観に沿った生き方ができるかが問われます。

がん患者とQOLー待夢さんの例

がん患者にとっても、上の3つの「質」が鋭く問われることになります。耐えられないほどの抗がん剤の副作用に耐え、あらゆる先進医療を試し、少しでも長く生きることを目指すのか、それとも、長く生きることよりも「よりよく生きる」ことを選ぶのか。

抗がん剤の効果がなくなって、次に使える薬もないとき、否応なく「自分の人生観」や「価値観」、「いのちとは何か」を考え、これからどのように生きるのか、あるいはどのようにして「死」を迎えるのかが問われるのです。

この問題に真剣に向き合って答えを出した待夢(たいむ)さんが、先日の「膵臓がん患者と家族の集い」で講演をされました。

40歳代の膵臓がん患者である待夢さんは、手術ができるステージであるにもかかわらず、自分の価値観、人生観に従って手術を拒否した方です。

手術を拒否した理由は、生まれて間もなくミルクを吐くことが多く、原因がわからず、大学病院をたらいまわしにされて、3歳までに6回の開腹手術を受けたが腸ねん転のような激しい腹痛が1か月の間に1週間。それが20歳過ぎまで続いた。

医者にモルモットにされたという思いが強く、それ以来医師を盲信しないようになった。成人後、胃腸科の先生に聞いたら、「先天性腸回転異常」といって手術をすると、余計に腸が癒着してしまうと聞かされ、医師への不信が確実になった。

手術のなかでも難易度が高いと言われる膵臓がんの手術をすれば、術後は高い確率で腸閉塞や腸捻転が起きるに違いない。しかも手術ができても8割以上の患者は再発・転移する。手術をすれば余命は伸びるかもしれないし、わずかだが完治の可能性もある。

しかし、持病を持った待夢さんは、術後のQOLと得られる恩恵を考慮して、今の自分にできることをやり、それで悪化したらそれが寿命だと思うことにした。

小さいころから「死」に対面して生活してきた待夢さんには、「死」に対する絶望的な恐れは少ないのかもしれません。

家族も、そうした待夢さんの決心に対して「本人がいちばんいいように選択して」と、納得してくれた。奥さんも「入院などしない元気な時間が一日でも長い方が良い」と応援してくれている。

無治療を選択するはずだったが、親戚などから遺された家族への「何もしなかった」という非難が起きることも考慮して、抗がん剤を減量して投与している。

ご自身の症状と治療の可能性を充分に考え抜いた上での「手術をしない」という選択でした。迷いもあったに違いないでしょうが、こうして自分の価値観、人生観をはっきりと持った決断は、なかなかできるものではないでしょう。

治療への希望があるから生きることができるのです。しかし、抗がん剤の副作用に耐えることが「生きがい」になってしまっている場合もあります。何のために治療するのか、希望が実は、執着になってはいないか、がん患者としては時々ふりかえってみることも大切でしょう。

待夢さんの講演からは、治る希望を得ることはできないかもしれません。しかし、たくさんの方に、生きる希望を与えたのではないでしょうか。

写真家 篠田登志雄さんの例

この本『QOLって何だろう』には、2013年に放映されたテレビドラマ「ラストホープ」の天才写真家 篠田登志雄(石黒賢)の例が取りあげられています。

篠田は、脳腫瘍の一種である膠芽腫のステージ4で余命は3ヵ月と告げられます。さらに、加齢黄斑変性という目の病気で、右目は完全に失明し、左目もほとんど見えない状態でした。

高度先進医療センターの医師は、「治るのは厳しいが、余命は伸びる可能性はある」と告げます。

篠田は「治らないと分かって良かった。これで覚悟がついた」と語り、医師に頼みがあると切り出します。

「頼みがあるんだ。命はいい。目の方を治してくれないか。研究段階のものでも何でもいい。一瞬でいいんだ。この目を見えるようにしてくれないかな。」

絶句した医師は、「どうしていのちより目なんですか?」と問うと、「俺は写真家だ。もう一度写真家に戻って、目の前の風景を切り取りたい。写真家として最期を迎えたんだよ。」

愚行の権利

現在の医療においては「同意原則」が法的にも倫理的にも重視されています。患者が「いやだ」と言えば、それが医学的に見てどんなに馬鹿げたことだと思われても、医療を強制することはできません。

憲法13条には「幸福追求権」が認められていますから、他人に迷惑をかけないかぎり、どのような危険で馬鹿げた行為も認められるべきです。

そうであるのなら、私たちには非合理的など思われること、「愚行」をも選択する権利があるということです。

「愚行」と言っても、つまらない行為と価値判断をしているわけではなく、危険なこと、自分のいのちや健康をリスクに曝す行為という意味です。

医療における「愚行」において重要なことは、患者は決して「死にたい」わけではなく、ただ自分らしく「生きたい」だけなのです。医学的観点からは愚かな行為であっても、本人にしてみれば、QOLを熟慮した上での判断であり、自分の生きがいを大切にした結果なのです。

治療を拒否する彼らの行為とは真逆ですが、最期の最期まで抗がん剤の投与を続けたいという行為も、医学的には余命を縮めるだけであっても、患者本人にとってはそれが「希望」であり、「生きがい」になっている場合があります。緩和ケアに移れば良いのにと思われても、本人にとってはそれが唯一の治療になっているとしたら、誰にもせめられないことです。

もう一つ考えておかねばならないことは、医学が進歩したから「愚行」ができるようになったということです。

2001年にゲムシタビン(ジェムザール)が承認されるまで、膵臓がんに使える抗がん剤はありませんでした。その後もしばらくはゲムシタビンだけの時代が続きました。私が手術した2007年は、術後の補助療法ではゲムシタビンしか使えませんでした。

2001年までは、抗がん剤を使うか使わないかという選択肢はなかったのです。膵頭十二指腸切除術が危険な手術だった時代は、延命と手術死は危険な賭だったのです。

篠田の場合も、高度な目の手術ができるように医学が進歩したから、「愚行」を選択できたのです。

君が救いたいのは、私じゃない

篠田と医師とはQOLをめぐって深いコミュニケーションを重ねるのですが、後日医師たちが改めて状況を伝えます。

目の手術で視力が戻る可能性は10%、脳腫瘍の手術で余命が伸びる可能性も10%だと告げます。

「いのちと目、可能性が同じ10%という偶然、ハハハ・・・面白いね。目の治療を優先してください」

医師たちは言葉を失います。気を取り直して、

「脳腫瘍の治療を優先してください。患者があきらめても、医者が諦めるわけにはいかない」

それを聞いた篠田は、

「君が救いたいのは、私じゃない」

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味だよ。君が見ているのは、私じゃない」

「医者として、どんな状況であっても、だれ一人見捨てない・・・」

「怖いのか?」

「えっ?」

「君は最初から頑なに、いのち、いのちと言っている。医者としてその信念が崩れるのがこわいように感じるが、気のせいかな?」

「・・・・」

「それは俺も同じだよ。最後に写真家でいられないことがこわいんだ。このまま暗闇のなかで死ぬことがなによりもこわい。写真を撮ること。それは、俺にとって生きることだ。」

それでも懸命に治療を勧める医師に対して、篠田は、

「君が救いたいのは、私じゃない」

と言いきります。医者としての信念を救いたいだけではないかというのです。

そう、患者の病気は見るが、人は見ない。人間の価値観や人生観を見ようとしない。これも一つのパターナリズムでしょう。

目の手術をする決意をした篠田に、眼科医が伝えます。

「確かに成功率10%とお伝えしましたが、それを50%に引き上げる自信があります。私は私以上に、優秀な眼科医を知りません。」

手術が終わり、2週間後に眼帯を外すと、篠田の目は見えるようになっていた。篠田は屋上に連れて行くように頼み、カメラを持つが、「残された命、最後にカメラなんて必要ないのかもな。この目に映った大切なものを心の目で撮る。いや、せっかくだから一枚だけ撮ろうか」と言って、脳神経外科医の橘を被写体に最後の写真を撮ろうとする。

笑わない橘に、篠田は「笑わなくていい。仕事に真摯に取り組んでいる、誇り高き女医。それが君らしい。こんなに嬉しいことはない。これで私は写真家として死ねる」と言って、最後のシャッターを切る。

最後に、フロイトはこのように語っている。

生きることの意味と価値について問いかけるようになると、われわれは狂ってしまう。何しろ意味も価値も客観的に実在するものではないのだから

この本の目次
序章 QOLって何だろう
第1章 医療とQOL
第2章 高齢者医療とQOL―フレイルにどう対処したらよいか
第3章 認知症ケアとQOL
第4章 QOLを伝えられない人のQOL
第5章 家族と私のQOL
第6章 看取りとQOL


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