今日の一冊(125)『急に具合が悪くなる』
乳がんが肝臓に多発転移し、主治医から「急に具合が悪くなるかもしれない」と告げられた哲学者の宮野真生子さんと、文化人類学者である磯野真帆さんの往復書簡『急に具合が悪くなる』(晶文社)。2026年夏の映画化公開も決定し、今改めて「生と死」「病のリスク管理」をめぐる二人の全力投球の対話が注目を集めています。
かつて2007年にすい臓がんの手術を経験し、今もサバイバーとして生きる私自身の経験を重ね合わせながら、本書が描き出す現代医療の病理と、がん患者が陥る「決める疲れ」について深く考えてみました。
磯野真穂さんがこの本についてのインタビューに答えています。
数値という「弱い運命論」に縛られる患者たち
病気になったとき、私たちは否応なしに「リスク」という冷徹な数値と向き合わされます。
ハイデガーは『存在と時間』の中で、「死は確かにやって来る。しかし<今>ではないのだ」と言っています。哲学者である宮野さん自身も、健康な人よりはるかにはっきりとその事実を自覚し、自分に言い聞かせてきました。しかし、いよいよ逃げきれないところまで病状が進んだとき、主治医から示されるのは「エビデンス」という名の確率論でした。
「この治療を選択すれば何パーセントが生存し、あちらを選べば副作用の確率は何パーセントになるか」
「5年生存率は30%です」
こうしたリスクの数値が示されるたび、患者の人生はどんどん細分化されていきます。悪い可能性ばかりが目の前を占拠し、何も起こらずに普通に生きていく未来が極めて小さく、奇跡のように感じられてしまうのです。
さらに厄介なのは、医療者がエビデンスに基づいて語る未来には、最終的に必ず一定の結果へとたどり着く「未来予想図」があらかじめ想定されている点です。科学的で誠実な説明であるはずの確率論が、患者にとっては、そこから逃れられない<弱い>運命論として機能してしまうのです。
人類学者の磯野真帆さんは、この現象を次のように看破しています。
「私が医療現場をフィールドワークしていて思うのは、現代医療の現場は、確率論を装った<弱い>運命論が多いということです」
医療現場で叫ばれる「正しい情報に基づく、患者の意思を尊重した意思決定」という美しいスローガン。しかし、その「正しい情報」という言葉こそが、患者の目を曇らせる原因になっているのではないかと磯野さんは指摘します。医療者が提示する選択肢には、医療者自身の意図やエビデンス作成者の意図があらかじめ組み込まれており、患者はその中から一本の道を選ぶという「運命論的な選択」を迫られているに過ぎないからです。
「エビデンス通り」の限界と、患者が求める「もう一つの可能性」
ここで、がんサバイバーとしての私の考えを述べさせてください。
医療者が提示する「正しい情報」だけに頼り、きちんとしたエビデンス通りの治療しか受けなければ、結局は「エビデンス通りの結果」が待っているだけです。治らないがんとされた場合、その先には「いずれは緩和医療へ行ってください」という道が一本引かれているに過ぎません。
しかし、がん患者が願うのは「治りたい」、ただこの一心です。標準治療である程度の治癒が見込める初期段階であれば、それに従うのがベターでしょう。けれども、再発や転移、あるいは私が経験したすい臓がんのように治癒率が極めて低いとされるがんの場合、標準治療の枠内だけで大人しく座っていることなどできません。
患者が「自分にもできる、まだ見ぬ可能性があるはずだ」と模索するのは、生命として当然の、極めて自然な心理です。
人間は、単一の因果関係だけで測れる機械ではありません。無数の要素が絡み合う「複雑系」です。ある代替療法に単体では「効果がない」というエビデンスがあったとしても、それを別の方法や、自身の生活習慣、心のあり方と組み合わせたときの可能性は、科学でも予測不可能な未知数(カオス)です。未来は誰にも予測できないからこそ、私たちは希望を捨てないのです。
「決める疲れ」の果てに忍び寄る「強い運命論」の誘惑
宮野さんは、主治医から緩和ケアを勧められます。とても優しい主治医は、様々な緩和病棟の候補を挙げ、「患者の意思を尊重した支援」に尽くしてくれました。
しかし、知識が積み上がれば上がるほど、宮野さんは「緩和病棟で自分がどう過ごすのか」という具体的なイメージを結ぶことができなくなります。死へ向かうプロセスで自分の体に何が起きるのか、どんなふうに悪くなっていくのかは、誰にも予測できないからです。
メリットとデメリットの計算を強いられ、大きな未来(自分の死)を前に細分化された可能性ばかりを突きつけられる。そして最後に、
「あなたが良いと思うように決めてください」
と、自己決定の責任をある意味で放り出される。これに付き合わされる患者は、やがて「選ぶのも大変、決めるのは疲れる」という極限の疲弊状態に陥ってしまいます。
この「決める疲れ」に付け込んでくるのが、「偽装された粗雑な<強い>運命論の誘惑」、すなわち一部のエビデンスなき代替医療やオカルト的治療法です。
「この食事療法でがんが消えた」「副作用なしで絶対に治る」
科学が「かもしれない」という保留付きで患者を突き放すのに対し、これらの<強い>運命論は、優しく、そして断定的に手を差し伸べてくれます。
医療者は「正しい情報を与えれば、患者は合理的な選択をするはずだ」と考えがちですが、それは傲慢な思い込みに過ぎません。疲れ果てた患者にとって、リスク数値を伴う曖昧な科学よりも、100%の救いを約束してくれる非科学のほうが、はるかに魅力的な選択肢に見えてしまうのは、ある意味で必然なのです。
代替療法とどう付き合うか――私が実践する「3つのマイルール」
医療人類学者のアーサー・クラインマンは、人が病を乗り越えようとするとき、以下の三つのセクターを巡ると述べています。
- 民間セクター:家族や友人など、日常的な人間関係(治療の選択に最も影響を与える)
- 専門職セクター:病院や医療者(標準治療)
- 民俗セクター:代替療法や伝統医療(エビデンスはないが、独自の理論を持つ)
標準治療(専門職セクター)に疲れ果てた患者が、民俗セクターへ流れていく。この行動を単に「非合理的だ」と切り捨てることは誰にもできません。
では、私たちはこの複雑な医療の海をどう泳げばよいのでしょうか。
私が代替療法を検討する際、自分自身に課している「3つのマイルール」があります。
- ある程度のエビデンスがあること (少人数のヒトデータやマウス実験程度でも、最低限の科学的背景があるか)
- 重篤な副作用がないこと (標準治療に上乗せして行う以上、体に過剰なダメージを与えないか)
- 続けるために高額であっては無理であること (家計を破綻させるような価格設定は、それだけで信頼に値しない)
代替医療の怪しい「強い運命論」に全てを委ねて盲信するのではなく、自分なりの合理的なフィルターを持ち、主体的に「納得して試す」こと。これが、複雑系であるがんという病に対する、私なりの対峙の仕方です。
「自己決定のプレッシャー」を解除する
人類学者のメリー・ダグラスは、「人が確率に基づく判断を手放すときは、経験値に基づく判断が不可能なときである」と指摘しました。降水確率30%なら判断できても、生存率30%の抗がん剤治療の是非は、経験したことがないため判断できません。
だからこそ人は、確率論を捨て、「誰を信頼するか」に基準を切り替えます。自分に代わって誰かに決めてほしい、と願うのです。
磯野さんは、代替療法に時間とお金を注ぎ込まないためにも、「決めることに疲れた患者に代わり、医師がある程度方向性を決めてあげる仕組みが必要ではないか」と提案しています。
宮野さん自身も、主治医に「先生、何かありませんか?」と素直に頼り、問いを投げかけました。すると主治医は、大学病院の立場としては推奨しづらい自由診療の選択肢をも含めて親身に提案し、紹介先の医師とも連携してくれました。
「一人で正しく選択しなければならない」という孤独なプレッシャーを医師が解除してくれたことで、宮野さんも、そして主治医も、どれほど救われたことでしょうか。
しかし、そうした「患者の生に寄り添い、共に悩んで肩代わりしてくれる医師」が、現代の医療現場において極めて稀であることも、また悲しい事実なのです。
偶然を受け入れ、最善を尽くした後は「無為」に生きる
物語の後半、宮野さんの病状は急速に悪化し、往復書簡はいよいよ「生と死」の本質へと突入します。
偶然性を問い続けた哲学者・九鬼周造の研究者であった宮野さんは、自分ががんになった偶然を徹底的に考え抜きました。
がんに罹ることなくありえた「にもかかわらずこのようにある」自分の存在が、痛みと死の恐怖のなかに立ちあがってきます。間違いなく怖いです。無へと引きずり込まれそうになります。その恐怖をはらうように、私は考え、言葉にするのです。
モルヒネも効かなくなるほどの壮絶な痛みと、圧倒的な死の恐怖を抱えながら、彼女は自らの知性を総動員して「生の言葉」を紡ぎ続けました。
がんという、あまりに理不尽な「偶然」が、抗いようのない「運命」へと変わっていくプロセス。その中で私たちができることは一体何なのでしょうか。
古代ローマのストア派哲学者エピクテートスは、「自分の力でコントロールできるもの(考え、行動、意欲)」と、「自分の力ではどうにもならないもの(身体、病状、結果、他人の評価)」を厳格に峻別せよと説きました。
がんになった自分の体をどれだけ悔やみ、リスクの確率に一喜一憂しても、それは「自分の自由にならないもの」です。そこにエネルギーを奪われて、不安に押し潰されるのはもったいない。
私たちがすべきなのは、自分がコントロールできる領域、すなわち「納得のいく治療を主体的に選択し、日々を豊かに生きるための行動をとる」ことだけに専念することです。
そして、やるべき最善を尽くした後は、老子の説く「無為」の境地に身を置くことです。
「無為」とは、何もしないことではありません。「余計な作為はせず、あとは成り行きに任せる」ということです。自分の生を無理にコントロールしようと躍起になるのをやめ、世界(タオ)の働きに生かされていると知るとき、私たちの「ライフ・エナジー」は最も良く流れるのではないでしょうか。
『急に具合が悪くなる』という二人の知性の火花が散るような往復書簡は、私たちに「正しく決めること」以上の、他者と共に傷つきながら生き抜く覚悟を教えてくれている気がしてなりません。












