エンデと資本論とカムイ伝

1月13日のこのブログ「クロードアップ現在」2008年 新マネー潮流」でエンデの利子に対する批判を書いた。つまり、

「キリストが生まれた事を喜んだ父ヤコブが1マルクを貯金した。年5%の複利で預けたとしたら、西暦2000年にはいくらになるか?何と、太陽4個
分もの金塊が手に入るというのです。一方、2000年間1日8時間働いて得られるのは金の延べ棒一本分になります。」エンデはこうして「金利」の欺瞞性を
暴露し「複利で増え続ける」ことの荒唐無稽さを突いているのです。

こういう話だが、どうも計算が合わない。私の計算では西暦元年に1マルクを5%の複利で預けて、西暦2000年には、1.05^2000=2.4×10^42 マルクとなる。

  • 1マルクは過去65円から90円の範囲で変動しているが、真ん中程度の75円としよう。
  • 金1gの相場も、1000円から2000円の大きな変動があるが、1500円としよう。
  • 太陽の質量は、1.9891×10^30kg であるが、2.0×10^33gとして良いだろう。

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なんと、6千万個の太陽と同じ重さの金塊が買えるという計算になる。

4個と6千万個ではまさに桁違いの間違いであるが、しかし、エンデが言いたいこと、金利というものが荒唐無稽なシステムであり、永久に5%の複利で増え続けることはまさに太陽系規模のばかばかしさであるという指摘の本質には何ら影響はない。

しかし、どうしてこんな桁外れの間違いが生じたのだろうか。エンデの発言した言葉を正確に再現すると、

「ある人が西暦元年に1マルク預金したとして、それを年5%の複利で計算すると、現在その人は、太陽と同じ大きさの金塊を4個分所有することになる。一方、別の人が、西暦元年から毎日8時間働き続けたとする。彼の財産はどのくらいになるのか。驚いたことに、1.5メートルの金の延べ棒1本にすぎないのだ。
この大きな差額の勘定書は、一体誰が払っているのか」

(中略)やがてその金利自体が今の経済にとても重荷になってきます。そしてその重荷にやがて耐えられなくなる日がやってくるのは火を見るより明らか(中略)「この経済と金融システムは、いつの間にか、真正ガンが形成されるときの特徴をみんな備えてしまった。
つまり、それは、生き続けるために、常に成長し増殖しなければならないのだ。」 <『欧州知識人との対話』(和田俊訳 朝日新聞社)>

ということです。ここでは西暦元年から西暦2000年までの複利計算だとは言っていない。ではエンデはこのたとえをどこから思いついたのでしょうか。エンデ自身の創作でしょうか。実はエンデはマルクスの「資本論」を若い頃に読破しています。そして資本主義とマルクス主義について次のように述べているのです。

「以前は、ともかくマルクス主義をひっぱりだせば、なんでも進歩的とみなされた。あるいは、自分では進歩的であると考えたものだ。・・しかし現在は大きな危機をむかえている。どうしたらマルクスを使えるのか、いったいマルクス主義は使い物になるのか、さっぱり見当がつかない」

「私は今日の世界はすべて資本主義体制だと見ます。マルクス主義だっていまではみんな資本主義になっています。ただ西側が私的な資本主義であるのに対して国家を単位とした資本主義になっていることだけです」

エンデがマルクスの「資本論」を読み通していたことはこれで明らかです。そして「資本論」の第3巻第5篇第24章「利子生み資本の形態における資本関係の外面化」に次のような記述があります。

「資本とは、永久に存続しそして増大する価値としてその生得の属性によって―すなわちスコラ哲学者の言う隠れた資質によって―、自己自身を再生産し、そして再生産において自己を増殖する価値である、という観念は、錬金術師たちの空想も遠く及ばないドクター・プライスの奇想天外な思いつきに至らしめた。すなわち、かの、ピットが本気にこれを信じて、国債償却基金に関する彼の諸法律において、彼の財政の支柱となした思いつきである。

【原注】“複利を産む貨幣は初めは徐々に増大する。しかし、増大率は絶えず加速されるので、ある期間の後には、想像を絶する速さになる。キリスト生誕の年に5%の複利で貸し出された1ペニーは、今日ではすでに、すべて純金からなる1億5000万個の地球に含まれているよりも、もっと大きな額に増大しているであろう。しかし、単利で貸し出されたとすれば、同じ期間に7シリング4ペンス半にしか、増大しないであろう。今日までわが政府は、第一の道よりも第二の道によって、その財政を改善しようとしてきたのである。”
リチャード・プライス『国債問題について公衆に訴える』ロンドン、1772年

たぶんこの部分がエンデの記憶にあったのではないでしょうか。1マルクではなく、1ペニーであり、2000年ではなく1772年(頃)ということです。マルクもペニーも今はなくユーロになっているのですが、1700年代のマルクと円との関係と言っても、円そのものが存在しない。ユーロになる以前では1マルク78円、1ペニーは0.8円ほどだったらしい。ですから本当に太陽4個だという計算を確認することは無理なようです。

1772年に1億5000万個の地球の質量(=太陽の質量の0.45倍)だったものが、5%複利で太陽4個分になるには45年かかる。つまり1817年頃にはそうなる。先のとんでもない太陽6千万個よりはだいぶ近づいてきた。

【追記】
エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと』の中で、エンデの蔵書の一つ、マルグリット・ケネディの『利子ともインフレとも無縁な貨幣』の中に次のような記述があります。

ヨゼフが息子キリストの誕生のときに、5%の利子で1プフェニヒ(1マルクの100分の1)投資したとします。そして、ヨゼフが1990年に現れたとすると、地球と同じ重さの黄金の玉を、銀行から13億4000万個、引き出すことができるのです。永久に指数的な成長を続けることが不可能なのは火を見るより明らかでしょう。

マルクスを否定したエンデではあるが、すでにマルクスは、エンデと同じ主張を、資本論において展開しているというわけである。マルクス自身は「資本論」において資本主義を頭から否定しているわけではない。むしろ歴史的にも必然的な制度であり、「蓄積欲」を利用して経済発展を遂げるというシステムにより人類は長く悩んできた飢えからも解放されたと説いている。しかし、その欲望から解放されない限り人間の幸福は訪れないとも説いている。釈迦やキリストや老子が説いた「欲を捨てる」ことが「幸福」になるための必然的な道だよということを、剰余価値の発見により経済学的に証明したのが「資本論」ではないだろうか。

いま、ヨーロッパにおいて『資本論』が爆発的に読まれているという。日本においてはまだその兆候はないが、多喜二の『蟹工船』が読まれている。現在の資本主義の悪しき面のみを追求した新自由主義経済の結果が、この格差社会である
。老人いじめの社会である。自殺率世界一の国である。こうした現状を解決する方法を資本論に求めているに違いない。このミゾユウの事態にアホウ総理にも資本論を読んでもらいたいが、普通の人間にとっても難解な書物であるから、普通ではない総理には無理かもしれない。ならば「まんがで読破 資本論」はどうだろう。これなら彼の最も得意とするところだ。

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イギリスでは消費税を減税することが決まったようだ。ところが我が日本の「アホウ総理」は3%の消費税増税を断固としてやるという。アメリカ発の金融恐慌であるが、アメリカでは黒字の会社で労働者を解雇したというニュースは伝わってこない。ビッグ3などの赤字企業では問題になっているが。ところが我が国では減収だとはいえ黒字のトヨタやキヤノンが派遣社員の首を切るという。どうして黒字の会社がこのようなことをするのか、それに対して労働者がどうしてストライキや暴動に立ち上がらないのか不思議だということで、韓国やヨーロッパのマスコミが中部地区に大挙して取材に来ているそうである。

1999年、日経連会長だった奥田碩トヨタ自動車元会長が言っていた。「経営者たるもの、首を切るなら、腹を切れ」と……。トヨタの現経営者は腹を切る心づもりがあるのだろうか。(最もこの奥田さん、最近ではマスコミに噛みついて「報復する」とかいう発言もした人物ですから、話半分に聴いておいた方が良さそうですが・・・)

財源がないと言うが、IMFに10兆円もぽんと差し出した。いったいどこから沸いてきたのか。アホウ総理は打ち出の小槌でも持っているのか。朝日新聞を初めとしたマスコミも「財源は消費税でまかなわざるを得ない。財源がないのだ」という。だが、年間5兆円もの防衛費にはまったく触れない。それ以外に沖縄の基地をグァムに移転するために2兆円が必要だという。防衛費は聖域なのか。「聖域なき財政再建」と言っていたのは誰だったのか。

首を切られても反対できない、かといってこんな世の中を変えるという意識もなく、選挙の投票にも行かないという4割台の投票率。本当に日本人はどうなってしまったのか。こんな日本にするために私たち団塊の世代は、癌になるほど頑張ってきたのはずではなかったのでしょうに。

白戸三平の「カムイ伝」には百姓が生き生きと描かれています。百姓とはまさに百の職業、大工もやり、下肥を肥料とするために便所も改良し、そのリサイクルシステムを確立するために問屋にも商人にもなったのが日本の百姓です。「カムイ伝」にはそんな農村の姿が生き生きと描かれている。そして必要ならば寄り合いでコミュニケーションを取り一揆も頻繁に起こしている。

小伝馬町の牢屋敷入れられた抜け忍者の赤目が、牢名主らの「作造り」(牢が込んでくると、人減らしのために何人かを殺害した)に堪忍袋の緒が切れて、反対に牢名主らを始末する。終わった後にこう言う。「そういう腰抜けだからこいつらがのさばるんだよ」「忘れるなよ、今日のことを。うぬらのことはうぬら力でやるのだ」とかっこよく言って牢を去っていく。

日本人にはそんな伝統と意気があった。どこの百姓一揆にもそんな英雄がいた。現在の府抜けた状態が異常すぎると言える。眼を覚ませ。こんな世の中を変えたいのなら、現在は投票に行くだけですむ。命がけのことでもあるまいに。

Hen今年の漢字に「変」が選ばれた。清水寺の森清範貫主が揮毫する写真が報道されている。”Change”が選ばれたことは、この府抜けたような日本にもようやく政治への関心が向いてきたということに違いない。しかし、「変」が現実のものとなるまでには日本人は長い地獄のような経験をしなくてはならないだろう。来年はそのような1年になる。


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エンデと資本論とカムイ伝” に対して1件のコメントがあります。

  1. 大変興味深く読ませて頂きました。(^^;

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