『死ぬのが怖い』は錯覚ですよ。
死が怖いのは、動物としての本能ですから、誰にでもあたりまえに怖いです。ロシアン・ルーレットで拳銃を頭に突きつけられて、引き金を引け、といわれたら、脂汗がたらたらと流れます。そのような状況になるのは御免被りたい。
でもね。どうして死ぬのが怖いのでしょう。死ぬ直前までは生きています。死んだあとは自分の意識ももちろん無いのだから、死んだことすら理解できません。あたりまえですが。
死の瞬間が苦しくて痛みがあったとしても、死んだあなたにはもう関係のないことです。苦しかったことすら感じるあなたの意識が存在しません。
すさまじいがんとの闘争を経験した宗教学者の岸本英雄氏は『死を見つめる心 (講談社文庫)』で、死を恐れる心を、生命飢餓状態と言いました。
生命飢餓状態=死の恐怖との長い格闘の末、「死というものは、実体ではない・・・死を実体と考えるのは人間の錯覚である。死というものは、そのものが実体ではなくて、実体である生命がない場所であるというだけのことである」と気づいたのです。「人間にとって何よりも大切なことは、この与えられた人生を、どうよく生きるかということに尽きると考えるようになったのです。そして「死」は旅立ちであり、旅に出るときの別れと同じであると。
何度か取り上げた田中雅博さんの記事が朝日新聞にあります。
『いのちのケアとは 末期がんの内科医・僧侶 田中雅博さん』
栃木県益子町にある1300年近い歴史のある西明寺住職であり内科医でもある田中さんは、膵臓がんが見つかり手術をしましたが肝臓に転移しました。検査結果やデータから、「来年3月の誕生日を迎えられる確率は非常に小さい。もう少しで死ぬという事実を直視しています」と考えています。
――僧として、医師として、ずっと「死」の問題を考えてこられました。自身の死は怖くない、とおっしゃるのかと。
「そんなことはありません。生きていられるのなら、生きていたいと思いますよ。私には、あの世があるかどうかは分かりません。自分のいのちがなくなるというのは……。やはり苦しみを感じますね。いわば『いのちの苦』です。
自分というこだわりを捨てる仏教の生き方を理想とし、努力をしてきました。生存への渇望もなくなれば死は怖くないはずです。ただ、こだわらないというのは簡単ではありません」
「かといって死んでしまいたいとも思わない。生きられるいのちは粗末にしたくありません。一方で、自分のいのちにこだわらないようにする。そのふたつの間で、『いのちの苦』をコントロールしているわけです。死の恐怖や不安と闘うというよりは、仲良くしようとしている感じでしょうか」
医者であり僧侶であっても死は怖い。これが普通かもしれません。しかし、そんな自分の意志をコントロールすることはできる。できるように毎日を送る。
そして今日という日を精一杯生きることで自分の命を確認することはできます。
じっくりと死について考え、人生をふりかえってみる時間を与えられたのは、がん患者の特権です。
そうした努力をする以外に、がんによる死を受け入れることは難しいよね。
自分の死について考えることが一つのストレスになるのは間違いありません
例えば、30日後に心筋梗塞で亡くなる運命だとしても
それを知らなければ平然と日々を過ごせます
いっぽう膵臓がんと宣告されれば、その後20年生きる運命だとしても
やはりつねにストレスにつきまとわれることになります
近藤誠医師が、検診は受けるなと言うのも
真意はそのあたりにあるのだろうと考えています