人はなぜ死を恐れるのか?

人はどうして死ぬことを恐れるのか?
がんの告知を受けたらだれでも「死」が頭をよぎります。がんが治る病気になったとはいえ、やはり「がん=死」という受け止め方が普通だと思うし、膵臓がん患者なら「治る」ことは希なできごとであるから、一層「死」について考えざるを得ません。
哲学者の中島義道氏は『「死」を哲学する (双書 哲学塾)』で、
私の場合、死に対する恐怖とは、一瞬間だけ存在して、また永遠に無になる、という途方もなく残酷な「あり方」に対する虚しさです。
と書いています。そして、
死への恐れとは、言葉が生み出した影に過ぎない。われわれが死を恐れているとしても、じつは「死」という言葉を恐れているだけだということ、このことをからだの底から実感するときー死を文字通り克服することができるかどうかわかりませんがー、目くるめくような新しい世界が開けること、それはわれわれを「自由にする」こと
だと結論づけるのですが、それを7回の講義形式で考えていきます。ですが、哲学者の難解な論理を追って理解するのは結構骨が折れます。
死を恐れるのは間違っている
『「死」とは何か』でシェリー・ケーガンは、
死に対する一般的な見方は、最初から最後までほぼ完全に間違っていると主張する。
魂は存在しないし、不老不死は良いものでないことを納得してもらおうと試みる。そして、死を恐れるのは、実は死に対する適切な反応ではないこと、恐れることは間違っていると考えている。
死とは何か。シェリー先生の哲学的回答は単純である。死とは、身体が作動し、それから壊れる、死とはただそれだけのことなのだ。
では「ただそれだけのこと」がなぜ悪いのか?
自分という存在がなくなることが悪いことなのか?
と考察をしていきます。
死ぬのが怖くなくなる方法
それにひきかえ、前野隆司氏の『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』は分かりやすい。
東京工業大学卒の工学博士であり、ロボットの研究から脳と心の関係に関心を持つようになった方で、システムデザイン・マネジメントという考え方を提唱している。理工系の方であるので私には取っつきやすいということもある。
哲学者は演繹的に考えるが、科学者は帰納的に考える。前野氏は「死が怖いのはなぜか」を帰納的に説明しようと試みています。そして「死のシステムデザイン・マネジメント学」から、死ぬのが怖くなくなる方法を山登りに例え、頂上にいたる7つの推奨ルートがあると説明するのです。
- 死は幻想だと理解する道(脳科学の道)
- すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
- 自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)
- 主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考に道)
- 自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道)
- 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
- リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思考の道)
前野さんは、死ぬのは「いや」だけれど、「怖く」はないという。
哲学から脳科学までを動員して、帰納的に考えを展開する。本書の前半は帰納法と演繹法について「死」を考える。「死」を恐れないためには生は”クオリア”がつくりだした”幻想”であることを理解すれば良い。
赤いリンゴを見て、真っ赤なリンゴの酸っぱさを生き生きと感じるのがクオリアである。物理学的には波長が700ナノメートルの電磁波(光)が目を通じて脳に刺激を与えたとき私たちは「赤い」と認識する。この認識=感じがクオリアである。
有機物の集合である人間のからだ、その中でも高度に発達した脳が、外界からのさまざまな刺激に対応してつくりだしたクオリアの集合が「生」である。従って「生」は幻想である。
観念論的な不可知論とは少し違う。外界の存在を否定するのではないが、外界=世界のありようと、私たちが感じている世界とは違うということだ。
「生」が幻想なら「死」も幻想である
「私の死」は想像上の産物であって、死の瞬間は当人には認識できない。認識してもその人自身が存在しなくなるのだから、「認識」自体が無意味である。
そして過去も未来も「心」という幻想がつくりだしたものだから、本来人間には過去も未来もない。あるのは「ただ今」の瞬間だけ。だから「今」を生きるのが前野さんは「楽しくてしかたがない」という。
と、このようなことをしつこく繰り返して帰納的論理を展開する。
ひと言でいえば、「死」について私と前野さんはほぼ同じ地平に立っている。
「1.すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道」などは、道元の『正法眼蔵』(現成公案)にある次のような一節を思い出させる。
生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとえば、冬と春のごとし。
「4. 主観時間は幻想だと理解する道」などは
たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
しるべし、薪は薪の法位に住して、さき ありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごと く、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。
このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、 法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春 の夏となるといはぬなり。
以前のブログ「彼岸花と道元の死生観」でもう少し詳しく書いている。
私たちの身体を構成している元素は、超新星爆発で飛び散った炭素・鉄などの元素が長い時間をかけて太陽系、地球を構成し、そして40億年もの時間をかけて私たちを作った。いずれはもとの宇宙に返さなければならないのであり、この身体も「借り物」、命も「借り物」である。
自分のものであって自分のものではない、自己と他者には区別がなく、「生」と「死」にも区別がない。
こうして「3.自分の小ささを客観視する道」のルートを辿って「死を恐れない」頂上に到達することが可能になる。
ヒトは、進化の過程で可老可死を選択することで生き残ることができた生物の末裔なのです。
と、別の面から「死」を考えた『遺伝子の夢―死の意味を問う生物学』で田沼清一はいう。
二重の細胞死、アポトーシスとアポビオーシスは、多細胞生物が進化の過程で獲得した「生」のための戦略であり、死によって生を更新することがもっと
も合理的な”種としての”生の手段なのである。つまり、「死」は自分以外の「生」のために存在しているのである。ヒトは「死」という究極において、他人の
ために生きることを運命づけられているのである。
ヒトは自分の子孫ばかりでなく他者も、そしてすべての生物の生命を救うことを目的として生きることが本来の姿であることを死の遺伝子は語っているのではないだろうか
私たちは生物学の発展によって、このような認識を”科学的”にもつことができる時代に生きているのであるが、何のことはない、いにしえの賢者は、生
の本質、人の生きる意味を、真理を掴んでいるのである。遺伝子を知るはずもなかった老子・荘子が、死生観において我々の先にいるのである。
「夫れ大塊我を乗するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を佚にするに老を以てし、我を息わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり」
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そもそも自然とは、我々を大地の上にのせるために肉体を与え、我々を労働させるために生を与え、我々を安楽にするにために老年をもたらし、我々を休息させるために死をもたらすものである。(生と死は、このように一続きのもの)だから、自分の生を善しと認めることは、つまりは、自分の死をも善しとしたことになるのである。(生と死との分別にとらわれて死を厭うのは、正しくない) 岩波文庫 荘子第一冊 金谷治訳注 184ページ
「7.リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ」のルートは老子、荘子、仏陀、道元、良寛、吉田兼好、鴨長明らの先達が開拓してくれている。われわれは地図を頼りにその道を、ただ辿れば良いのだ。