愛犬の死
一度は獣医から安楽死を勧められていた我が家の愛犬・ヨークシャーテリアの年長の方が、先日28日に亡くなった。15歳と6ヶ月だから、人間ならば80歳から90歳近くとなろうか。
自分の心に現れた「喪失感」の大きさに、いささか戸惑っている。いや、私だけではなく、遺されたもう一頭の年少のヨークシャーも、なんだか違う雰囲気を感じるのか、おとなしく寂しそうにしている。
今年の1月には15歳の誕生日を祝った。その時の写真だが、こんなにも元気そうだった。老犬には見えない。
慢性腎不全で毎日輸液を100cc注射していた。あの小さな体に毎日100ccはたいへんだっただろうなぁ。おかげで持ち直したが、次第に内臓のあちこちが悪くなり、ひと月ほど前からは立つことも困難で、その日の調子が良ければやっと歩けるく状態だった。
がんばってトイレまで歩こうとする姿が痛ましかった。尿を垂れ流すので、床を1日に何度も拭き掃除しなければならなかったが、そんなことも全く苦にはならなかった。最後は肺炎を併発し、獣医からも「ここ数日が峠だろう」と言われていた。最後の日はけなげにも、4つの脚を踏ん張って、長い時間しっかりと立っていた。
子犬で我が家に来て、いつの間にか私を追い越して先に老人になった。そして先に逝ってしまった。これにある種の理不尽さを感じる。「無常観」とでも言っても良い。
しかし、こんな気持ちは、どうやら私だけではなさそうで、中野孝次も、飼っていた紀州犬のハラスが亡くなった喪失感の大きさを紛らわすために、編集者に勧められて『ハラスのいた日々』をいう本を書いているくらいだ。この本への反響を次のように遺している。
その本が出版されたのが一九八七年、つまり高度経済成長成熟期で、日本でもさかんに犬が飼われ始めたころであったせいか、これは<編集者の>高橋さんや私の予想を超えてよく読まれた。犬の本への反響は普通の本のそれとまったくちがうことも、この本を出してみて始めてわかった。
人間の死に対する以上の悲観を犬の死がもたらすこと、その喪失感と悲観の大きさのあまり心身の不調を来した人さえいること、その救いようのない思いを私のハラスの死への思いを記した文章を読むことで慰められたこと、などがそれらの手紙に共通するものだった。つまり人間の犬に寄せる思いのほどが、ときとして人の人に寄せるそれ以上に深く切実であることが、それらの手紙によってわかったのだった。(『犬のいる暮し』より)
自分の親や兄弟を亡くしたときの喪失感とも違う。この喪失感はどこから来るのだろう。
それはたぶんこのような理由からだろう。私たち人間は、ローランズが『哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン』で述べているように、「内なるサル」を飼っていて、サルの得意技である「計算」することによって生きている。一方でイヌ(もちろんオオカミであるブレニンも)は「計算」や利害関係の契約によっては生きていない、からだ。イヌとの関係は計算が入る余地がないし、「おまえは俺に何をしてくれるんだ?」という損得勘定でもない。むしろ一方的にこちらがイヌに提供する関係なのである。
なぜわたしたちは、少なくともわたしたちの一部は、イヌが好きなのだろうか。イヌはわたしたちの魂の、久しく忘れられていた領域の奥底にある何かに語りかけるのだ、と思いたい。そこには、より古いわたしたちが住みついている。わたしたちがサルになる前に存在していた部分だ。これはわたしたちがオオカミだったころの魂だ。このオオカミの魂は、幸せが計算のなかには見いだせないことを知っている。本当に意味のある関係は、契約によってはつくれないことを知っている。(『哲学者とオオカミ』より)
つまり、愛犬を失った喪失感は、意味のある深い関係を失った喪失感でもあるからだ。親や兄弟の間でも、ある種の「計算」は存在するが、イヌとの間にはそれがない。だから深い喪失感に陥ることができるのだと思いたい。わたしたちはイヌとの関係において、失われつつある「内なるオオカミ」を見ているのかもしれない。
わずか15歳の一生は短い。人間の100歳だって短さにおいては似たようなものだ。ビッグバンによってこの宇宙が誕生してから137億年。40億年前にこの地球に生命が誕生した。私も愛犬も、137億年間は存在しなかったのだ。そしてつかの間のこの一瞬、この世に存在した。そしていずれだれもが死んでいく。その後はまた「”わたし”の存在しない時間」が流れていく。40億年後に、この天の川銀河が、254万光年の彼方にあるアンドロメダ銀河(M31)と正面衝突し、地球も太陽もばらばらに飛び散ってしまうまで。
銀河×アンドロメダ星雲衝突は約40億年後。その時地球の空はこんなすごいことになっている
今日あたりは、やっと少し元気が出てきて、チェロの練習も再開している。
とても大事に可愛がられていたのですね。大切な家族として共に過ごされた、かけがえのない15年間が伝わってくるようなお写真で、心に染み入りました…犬というのは、本当に、無償の愛ですね。不思議な存在です。賢く、感情も深く、それでいて無邪気にしっぽを振っている姿を見ると、なんのために生きてるなんて悩むの、馬鹿らしいよ、と教えてくれているようです。
わたしにも大事な猫がいて、自分だけが頼りのこの猫をどうしてのこしていけよう、とか、逆にこの子がいなくなったらどうなるのか、と思い煩うこともあったのですが、’つかの間の一瞬’この世でこうして、一緒にいられることこそが貴重なんだと気づかせてもらえました。今日もありがとうございました。
teruminさん。お心遣いありがとうございます。
時間が薬、それしかありませんね。
私も癌サバイバーの一人で、時々、ブログを拝見しています。
特に原発関連の記事に共感を持って読んでいます。
植物の写真も素敵ですね。
さて、サバイバーさんの愛犬の訃報に接し、心よりお悔み申し上げます。
我が家の柴犬が9歳で旅立った頃のことを思い出しました。
私の不注意による事故だったので、いつも心に引っかかっていました。
一緒に歩いた散歩道を、毎日黙々とたどりました。
今思うと、私なりの「喪」の作業だったようです。
月日が経つにつれ、”いつか宇宙のどこかで会えるさ”
と思えるようになりました。
サバイバーさんも、時間をかけて喪のトンネルを抜けられますように。
げんき親父さんも愛犬家でしたか。
確か年齢も私と同じで、もちろん同病。最近二度目のブログタイトルを変えられた方ですよね。
がんがあってもいいじゃんか。自然に生きよう。同感です。おとなしくしていてくれたなら、なお良いです。
今後ともよろしくお願いします。
可愛い愛犬のご冥福をお祈りします
私も愛犬家なので、身につまされます・・・