パリの同時多発「テロ」

パリの「同時多発テロ」で129人の市民が亡くなったという。ISが犯行声明を出している。オランド大統領は「われわれは戦争に直面している」と言ったらしいが、彼の認識はたぶん正しい。

「戦争」ならたくさんの「敵」を殺せば「成果」である。一人を殺せば殺人であるが、「戦争」でたくさんの敵を殺せば英雄である。「テロ」と呼べば「犯罪」であるが「戦争」なら「成果」である。ローター通信は今回の事件を「同時多発攻撃」と報じている。ISは彼らなりの「正義の戦争」で「成果」をあげた。わずか7人の兵士の損耗で敵を130人も殺したのだから「英雄」である。

断っておくが、私はISの「テロ」を認めているわけではない。憎むべき非道である。

しかし、ペンタゴンの冷暖房の効いた部屋で、遠くの戦場上空から送られてくる映像を、ディスプレイの画面で見ながら無人機のミサイルのスイッチを押している「兵士」には、そのミサイルに下で殺されている女、子供を含めた市民の死体を見ることはない。

パリの惨劇は世界中に流されても、アメリカ・フランスの空爆の巻き添えで殺されている市民を大きく報じることはない。欧米の爆撃で身内を殺された者が、率先して自爆テロに参加しているという。彼らにも彼らなりの「正義」がある。アメリカはISやイスラム過激派を壊滅するのが「正義」だという。

「絶対の正義」などないのだから、紛争を武力で解決することを放棄しようというのが、日本国憲法と九条の精神ではなかったのか。

それを投げ捨てて、前のめりにイスラム国への戦闘に参加しようとしている安倍政権では、日本も当然「テロ」の対象となっていくだろう。東京オリンピックは無事に開催できるのだろうか。

憎しみが憎しみを呼び、それに対して過激に応じようとする者が賞賛され支持を受ける。他人の戦争に無理矢理割り込んで行こうとしている。「対テロ戦争」という名の「戦争」に巻き込まれたがっているように見える安倍政権の支持率が上昇する。そうした「目には目を」との風潮を、自分は安全圏にいる(と思っている)多くの国民が疑問を持たずに称えてるようになりつつある。数年前からこのようなことを書いてきたが、ますます自分の予感が当たってくるのが怖い。

テロを完全に防ぐことは「不可能」である。かつてのベトナムでは、南ベトナム解放戦線(いわゆるベトコン)のゲリラ攻撃を、アメリカは「テロ」と呼んだ。そして勝てなかった。テロに対して武力は、昔も現在も無能である。

       現在の日本は、戦争前夜である。


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