来年の桜を見られるだろうか:満開の並木道で思うこと
今、窓の外は桜が満開です。風が吹くたびに花びらが舞い、近所の公園は淡いピンク色に包まれています。
がんを患った者にとって、桜の季節はいつも特別な、そして少しだけ切実な想いを連れてきます。「来年の桜を、私はまた見ることができるだろうか」。そんな問いが、ふとした瞬間に胸をよぎるのです。
「来年」の保証がないということ
健康なときには当たり前だと思っていた「来年」が、がんの告知を受けたその日から、決して確実ではないものへと変わります。
再発や転移の不安を抱えながら年を越すとき、私たちは「無事に桜が見られ、誕生日を迎えられるだろうか」と、自分自身に、あるいは天に向かって問いかけます。かつて私のブログ仲間であった河本勝昭さんは、亡くなる一ヶ月前に「次は桜だ」と目標を掲げていました。
膵臓がんで亡くなった中島梓(栗本薫)さんも、最期まで「生きたい」と願い、その瞳には来年の桜を夢見る光が宿っていました。がん患者にとって桜は、「有限の命」を突きつける鏡であると同時に、生きる目標そのものでもあるのです。
「一期一会」として花を愛でる
いつまで生きられるか不透明な状況にあるからこそ、桜を眺める時間は「一期一会」の重みを持ちます。
咲き満ちて 散るを知る身ぞ 花の色は ひとしお深く 目に映るかな
この言葉にあるように、満開に咲いてやがて散る運命を自分自身に重ね合わせるからこそ、桜の色はいっそう鮮やかに、深く心に刻まれます。
明日や来年の保証がないことは、絶望を意味するのではありません。むしろ、今日という「いま、ここ」にある時間を最大限に輝かせ、楽しむための強い動機になります。この一瞬を慈しむことこそが、がんと共に生きる上での、最大の精神的な武器となるのです。
散る桜、残る桜も、散る桜
私がブログで何度も引用し、大切にしている良寛和尚の辞世の句があります。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
今まさに散っている花も、まだ枝に残っている花も、いずれはすべて等しく散っていく。少し早いか、遅いかの違いに過ぎません。死を恐れてジタバタするのではなく、与えられた時間をどう過ごすかに集中すべきだと、この句は教えてくれます。
道元の教えにある「全機現」——生のときはただ生き、死ぬときは死を受け入れるという姿を、私たちは桜の散り際に見出すことができます。
「生かされている」感謝を力に
今年も無事に桜を見ることができた。その事実は、サバイバーにとって何よりの「勝利」であり、自己治癒力を高める大きなエネルギーになります。
現在、私は2月の膝蓋骨骨折による療養中ですが、リハビリの合間に眺める桜は、2007年の手術直後に見たそれよりも、いっそう美しく感じられます。
たとえ体力が衰え、歩く姿が前かがみになったとしても、「いま、ここに存在する生命」を最大限に輝かせたい。散ることを案ずるよりも、今この瞬間に咲き誇っている自分を、「生かされている喜び」として受け止めること。それが、19年間のサバイバー生活で私が行き着いた答えです。
皆さんの上にも、穏やかで希望に満ちた春が訪れることを心から願っています。


