1年をふりかえって

今年も最後になりました。この1年をふりかえると、我が家では兄ヨークシャーの龍馬が慢性腎不全になったこと。さいわい輸液の注射のおかげで元気にしています。ただ、がん患者の私よりも、こいつの医療費が多くかかるのが悩みです。

家族全員健康で私のがん細胞もおとなしくしてくれているようで、再発の兆しはありません。ビックリするような良いこともないが、悪いこともない、そんな1年でした。こうして普通の日々が過ぎていくことが一番の幸福なんですが、そのただ中にいるときは幸福は実感できません。失ってみて始めて普通の生活がいかに大切か、宝物であるのかが分かるのです。

そのあたりまえの生活を突然失った、東日本大震災の津波によって亡くなった方々と福島第一原発の事故で故郷を追われた人たちがいる。

3.11以降は、このブログも闘病記なのか脱・反原発ブログなのか分からなくなりました。分かったのは専門家と言われてきた人たちの無責任さ。政治家の無能と官僚の優柔不断、責任回避。企業人のこの期に及んでも人命よりも経済優先主義。

原発は「絶対安全」だ、リスクはゼロだと言ってきた。そのリスクが現実になったとたんに、世の中にリスクがゼロのものはないのだから、この程度の放射線被ばくは受け入れよと言う。科学技術の不確定さを多くの国民が再認識するようになったのもこの1年の特徴です。

リスクは「損害の発生確率」×「損害の重大さ」で表わされる科学的なリスクではなく、自分にコントロールできるリスクなのかによって、利益を受ける者とリスクを背負い込む人が違うときにはより大きなリスクとして「受入れ難さ」を感じるのです。リスクを回避する行動がとれないときには実際よりも大きく感じ、便益がないのに損害だけを受けるときには更に大きなリスクとして感じます。これは科学の問題ではなく、むしろ正義の問題です。別の言い方をすればトランスサイエンス的要素を加味したリスク論が必要だということでしょう。

低線量被ばくは、発生確率は小さいでしょう。しかしがんが発症したときの「損害の重大さ」は受け入れがたい。毎日の食事による内部被ばくはコントロールが困難である。ましてや福島第一原発による直接の利益は受けていないのであれば、大きなリスクと感じるのが当然です。だから、「直ちに健康への影響はない」とか「CT1回分の被ばく線量よりも小さい」とのリスクの説明では反って不信感をもたれてあたりまえです。

がんの治療においても、抗がん剤が効果があるのか、寿命を縮めるのかは確率的にしか分かりません。しかしがん治療では自己決定権がある。リスクも利益も自分の体で受け取るのです。代替療法にしても、科学的にいえばエビデンスはない。しかし、エビデンスがないということは「効かない」と同一ではない。科学的に分かっていることとまだ分かっていないことを知識として把握した上で、自己責任で選択するのであれば、代替療法全体を否定するべきではないと思います。

科学的であるとはどういうことなのか、科学やエビデンスとの付き合い方について、改めて考えさせられた1年でした。そして、一番大切なのものは何であるかということにも。

新しい年が、少しでもましな1年でありますように。


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1年をふりかえって” に対して2件のコメントがあります。

  1. キノシタ より:

    しろさん。
    こちらこそ。来年もまた、よろしくお願いします。
    良いお正月をお迎えください。

  2. しろ より:

    キノシタ さん
    自分に、ありがたい勇気溢れる知識を、
    今年、ありがとうございます。
    来年も、なにとぞ、訪問さしてください

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