ひとり茶
午前10時頃から、蒲田の上空には、これまでに経験したこともない15機ほどのヘリコプターが旋回していた。オームの高橋容疑者逮捕の取材ヘリだ。Twitterで二度もつぶやいたけど、泳がせておいてこのタイミングで逮捕という疑念はますます強くなった。税と社会保障の一体(でない)改革、大飯原発の再稼働などの重大な問題の影が薄くなる。実際NHKや民放が特集を組んで、マスコミはしばらくはこの話題にかかりっきりになる。なんとも都合良く逮捕された、グッドタイミングではないか。
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世間の喧噪は放っておいて、お茶ミルで挽いた宇治の深蒸し茶と、カカオ86%の「チョコレート効果」でくつろいでいる。良い味だと思うのだが、茶も習ったことはないし、茶道などとは縁がなかったから本当の茶の味は知らない。カテキン、ポリフェノールがたくさん摂れて、それなりの味と香りがあれば、がん患者としては満足だ。
加島祥造の『ひとり』に「ひとり茶について」の一節がある。加島はそれなりの茶道具を持っているようだが、毎朝の”ひとり茶”では「手間のかかる茶事はしない。ふくさは用いない。茶釜の代わりに南部鉄瓶を置く」と書いている。私のはそんなレベルでもないが、勝手にうまい茶を飲み、ひとりで満足している様は同じである。
加島は、ドイツ出身の知人が、雪に埋もれた馬頭観音を丁寧にかき出して一心に拝んでいる姿を見て、ヘルマン・ヘッセのこんな詩を思い出したという。日本に来たことのないヘッセは、日本人が持っていた写真を見て、この詩を書いたらしい。
日本の山中で崩れかけた仏像を見て
ーーヘルマン・ヘッセーー長い歳月、雨と風にさらされて
すっかり苔むした仏陀の
温和な痩せた顔。
柔らかな頬。その
伏せた瞼の下の眼を
内側の目的に向けて
静かに立っている。よろこんで朽ち果てて
万有の中に崩壊してゆく。
形を融かしこむ「無限」のほうに
目を向けているのだ。その形は無に帰する道にあり、
もはや消えはじめているのに、なお
王者の高い使命をわれらに告げ
われらに求めている。己れの姿形を
湿気とぬかるみと土のなかに捨てることで
その使命の意味を完成させようとする。
明日は木々の根となるだろう。
風に、ざわめく枝葉となるだろう。
水となって
明るく澄んだ空を映しだすだろう
葛や菌糸や羊歯となって
伸び縮ぢみしているだろうーーーそれは
永遠の統一へむかう万物の
流転変遷の姿なのだ
加島の訳なのだろう。タオの思想に通じるものがある。「よろこんで朽ち果てて 万有の中に崩壊してゆく。」「もはや消えはじめているのに、なお 王者の高い使命をわれらに告げ われらに求めている。」自分のありのままで良いのだ。「がん患者」を無用に振り回すのでなく、ありのままでいてなお、この馬頭観音のように朽ちていきながら、人それぞれに内在する崇高な使命を果たしたいものだ。
陶淵明の有名な詩「悠然として南山を見る」をこんな風に訳してもいる。
こんな村里にいると
車は通るけれど、喧(うる)さくない。
なぜなら
心が遠くをさまようからだ。たとえば、
庭に出て、菊をつむ
ふと頭をあげると
南山が目にはいる。その空には
夕映えがひろがっている
二羽の鳥がうちつれて
林に帰ってゆくこういうひと時には
なにか永遠の真理が宿っている
そう思うんだがね
それは何かということは、どうも
口では言えんのだよ
都会の雑踏にある我が部屋の窓からも、時にはきれいな夕焼けを見ることができる。運が良ければ、池上本門寺の杜に帰っていく鳥の姿を見つけることもある。そんなときの気持ちは、「生きているありがたさを感じる」という言葉なんぞは陳腐になる。もっと感覚的で、背筋がぞくっとするようで「口では言えんのだよ」と言うほかないのである。
15機ものヘリコプターが旋回しては、こんな情緒はぶちこわしだが。
人生を感じさせる美しい詩ですね。