桜見物 千鳥ケ淵
しばらくブログの更新をサボりました。サボったわけではないですが、少し考えるところがあって、それをどのように書こうかと迷っています。それはまたいずれ。
今日は朝の6時から千鳥ケ淵の桜を見に行きました。靖国神社に着いたのが7時少し前で、まだ駐車場が開いていなくてウロウロしました。近くの二松学舎大学裏のコイン駐車場がちょうど空いていたので、そこに入れてまずは靖国神社へ。
ひろ さちやに言わせれば「明治維新のあと、大日本帝国が作った国家神道は、あれはニセモノ宗教です。あんなニセモノ宗教を押し付けられたので、日本人は宗教嫌いになってしまったのです」(『世逃げ』のすすめ 集英社新書)となるようです。私もそう思います。遊就館(宝物遺品館)などはまさに「戦争博物館」です。侵略戦争を美化するばかりです。
千鳥ケ淵の桜はまさに満開でした。昨日なら天気も良くてもっときれいだっただろうと想像
するのですが、今日は曇り空。冬が戻ったような肌寒い朝でした。
『古今集』の紀友則の歌に、《桜の花の下にて、年の老いぬることをなげきて詠める》として
色も香も おなじ昔に 咲くらめど 年ふる人ぞ あらたまりける
との一首があります。
桜は昔と色も香も変わらず咲いていますが、それを見ている私も妻もすっかり歳をとってしまいました。桜をバックにした妻の顔をファインダ越しに見ては、お互いに老けたなぁと感じます。今年は夫婦そろって60歳になります。
ひろ さちやはまた、別の本で、『癌は自分の体の中から生まれたものです。だから自分自身なのだから、癌と戦うのは、自分自身と戦うことです。右手が左手とけんかをしたって自分の体が傷つくだけです。』といっています。『人間が老・病・死と戦っても勝てるわけがない。負けるに決まっている。それが仏教の教えだ』とも。(日本人の良識 アスキー新書)
これって、老子の思想と同じですね。