良寛の旅

妻の里での法要のため土日にかけて新潟に行ってきました。

昨日までは肌寒いほどの気温だったそうですが、当日は30度を超える真夏のような暑さでした。しかし都会の暑さとは違いますね。法要の為に襖・障子をすべて開け放った部屋は風が通り抜けて気持ちのよい暑さです。

Photo夜は近くの岩室温泉の「高島屋」に宿をとりました。江戸時代の庄屋屋敷を本館にした落ち着いた宿ですが、内部は改装されて近代的な装いです。桧の露天ぶろ付きの部屋は書斎も付いていて、私は露天風呂と書斎で読みかけていた読書の続きです。先月はこの宿で79期棋聖戦が羽生二冠と佐藤棋聖との対戦があったそうですが、ゆっくりと流れる時間を過ごすことができて命が伸びそうです。

夕食後、宿から10分ほどの祓川という沢に源氏ボタルがたくさん出るというのでカメラを担いで出かけました。「冬妻(ひよつま)のほたる祭り」としてイベントになっています。「ふゆつま」でなく「ひよつま」と読むそうです。Photo_2

こんなにたくさんの蛍を見たのは50年ぶりでしょうか。東京生まれの妻は初めてホタルの実物を見たと感動しています。ISO感度
を1600、シャッターを開放にして30~60秒の露光でうまく撮れました。きれいな川で一年かけて成虫になりますが、一瞬の命。ホタルは成虫になると一切の食べ物はとらず、水だけだといいます。命を次につなぐ、ただそれだけのための「光」。人間とて何の違いもありません。

岩室温泉近くの「夏井のハザ木」をみて弥彦神社へ。ハザ木は稲をかけて乾燥させるための木ですが、最近はあまり使われることもないようです。田圃はまだ稲穂は青々としていました。

Photo_3良寛が20年住んだという国上山の五合庵へ。ここには10年ほど前の冬に来たことがありますが、雪の山道に難儀しました。良寛の住んだ当時の越後の冬はもっと厳しかったはずです。今回は夏のような暑さの中で山道を息を切らせながらの上り下りでした。昨年の入院
中のこのブログに良寛の詩を書いていました。7月15日のちょうど台風4号が上陸した時です。当時は、ベッドで足を延ばすことができる、外は雨、私はこうして手術も終わって生きている。ただそれだけで満たされた幸せな気分になったものでした。

五合庵でボランティア僧・良寛に思いをはせました。多くを望まないほうがよい、欲が出るから迷いが生じるのです。生きることも欲

騰々(とうとう) 天真に任す
嚢中(のうちゅう) 三升のPhoto_4
炉辺 一束の薪
誰か問わん 迷悟の跡
何ぞ知らん 名利の塵
夜雨 草庵の裡
雙脚(そうきゃく) 等閑(とうかん)に伸ばす

出雲崎の良寛生誕の地と良寛記念館を見学。良寛記念館に中野孝次の最後の著作「良寛に生きて死す」があったので、「天上大風」の書とともに購入しました。
Photo_5
往復700キロの運転は、さすがに若くない身には堪えました。


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良寛の旅” に対して2件のコメントがあります。

  1. キノシタ より:

    トクナガさんは新潟出身でしたか。今回は法事にかこつけての湯治と良寛さんの足跡を訪ねての旅行でした。バックの山は弥彦山で、見えてはいませんが麓には弥彦神社があります。
    良寛は「何者にかになろうとはしなかった人」、多くの人が彼の書を争って手に入れようとしたが、書家ではない、素直な俳句をたくさん詠んでいますが、俳人ではない、僧でもない。所有しないことによって自由になろうとした人でした。ただひとりに人間であろうとしただけの人でした。しかしその生き方がどうして現在の私たちを惹きつけるのでしょうか。良寛の最期は大腸癌だっただろうといわれています。当時は治療の方法もなく、痛みを和らげるモルヒネもなく、ただ貞心尼の愛情に満ちた介護を受けるだけだったようです。
    一方でいろいろな治療法を受けることの可能な私たちなのに、どうしてこんなに迷いが多いのでしょう。

  2. トクナガ より:

    ハザ木の向こうに写っているのは弥彦山ですね。
    懐かしい地名、風景に思わず目を見張りました。
    良寛がふるさと新潟の生まれであるのは誇りですが、その割には良寛について通り一遍のことしか知らない事、反省です。
    長距離運転、お疲れさまでした。

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