安楽死

2匹のヨークシャーテリアの年上の17歳のほうですが、死が近いようです。1年前に慢性腎不全になり、毎日輸液を皮下注射して頑張ってきたのですが、ここ数週間で体重が激減。さらに膵炎になっており、それも相当厳しい検査結果です。水も飲めない。飲んでも激しく嘔吐する状態が続いて下痢も頻繁にしています。水を飲もうとしてもがくのは見ていてもかわいそうなくらいです。毎日9時半に病院に連れて行って点滴、痛み止めの注射をし、夜8時に連れ帰っています。このような状態をいつまでも続けられるはずもなく、いずれ近いうちに安楽死を考えてやらなくてはならないと思っています。

大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)
たまたま今読んでいる本が、中村仁一さんの『大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)』で、よけいに延命治療、死に際のことを考えるのです。

「百歳まで生きてがんで死ぬ」のが理想だと、ブログの副題にも書いていますが、中村仁一氏も同じように言っていますね。がんの患者さんには是非とも薦めたい本です。中村さん本人が「自分は変人」と言うだけあって、生前葬はやる、実際に(できるなら寝る前に毎日)段ボール製の棺桶(エコクラフィン)に入ること推奨しています。ご本人もやっていると。

末期がんでも、何ら攻撃的な治療をしなければ、ほとんどモルヒネも必要なく、気分良く「自然死」をすることができるそうです。実体験に裏付けられた主張です。中村仁一氏は老人ホーム「同和園」の附属診療所所長で、そうした「自然死」の例をたくさんみたことで、今の医療が逆に”穏やかな死”を邪魔しているのではないかといいます。

このような考えから「がん検診」も不要だと主張しています。この点は近藤誠氏と同じですが、老年にさしかかったらがんで死ぬのは幸運だと思うべきだし、がんはあの世からのお迎えの使者なのだと。

ホスピスで安易に「心のケア」を言うのにも辛口の苦言を発しています。心理学をかじっただけ、カウンセリングの技法をつけただけの「畳の上の訓練」で読んだ覚えもないのに傾聴と称してやってき、したり顔で頷いたり「お気持ちは分かります」なんて言うな。死んだこともないのに末期がんの患者の気持ちが分かってたまるか、というわけです。

現代医療は、治せない病気に対して、治すためのパターン化した医療措置をやっているのではないか。胃瘻で栄養を強制的に入れたり、脱水だと点滴注射で水分補給、貧血なら輸血、利尿剤や吐き気止め、血圧が下がれば昇圧剤など。今我が家のヨークシャーがまさにそんな医療措置を受けています。

これらは、せっかく自然が用意してくれている、ぼんやりとして不安もおそろしさも寂しさも感じない幸せムードの中で死んでいける過程を、ぶち壊しているのです。

このような拷問医療、拷問介護”死”に合わないためにリビングウィルを書いておく方が良いが、日本尊厳死協会のひな形はまずいらしい。「延命処置は一切お断りします」と書いておいても「延命処置」とは何かが人によって違う。具体的に書くべきと言います。例えば(1)心肺蘇生(心臓マッサージ、電気ショック、気管内挿管)(2)気管切開(3)人工呼吸器(4)強制人工栄養(鼻チューブ、胃瘻、中心静脈栄養)(5)人工透析(6)輸血(8)強力な抗生物質。これらを「事前指示書」に書いておけばよいそうです。

もっとも中村さんが死ぬ準備を薦めるのは、それによって現在をよりよく生きるためです。我が家の飼い犬をみていると、犬にとってよりよく生きるとはどういうことか。1日1日を家族と共に過ごす。普通の生活を普通に送る。それだけのような気がします。しょせん人間にとっても同じではないでしょうか。癌であろうとなかろうと、今日という日をただ普通に過ごすこと。「有意義に日々を生きる」なんてしかめっ面しく考えずとも、だだ普通の1日があればよい。

家族との食事がおいしくて、少しの晩酌ができ、自分で自分のおしりが拭け、自分の足で歩け、少し不自由な体であってもそれなりに自分の意志で動かせる。こうした普通のこと、あたりまえのことが”有り難い”ものだと、がんになったらよく分かります。

延命治療をどこで諦めるか、その場になってみれば結構判断が難しいものですね。自分自身のことなら簡単に決められます。しかし家族やペットのことであれば、判断が難しいものだと、しみじみと感じました。

幸せなご臨終―「医者」の手にかかって死なない死に方


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