死ぬなら癌がよい

2週間続けての出張で、夜はすることもないから、酔っ払った勢いでこの記事を書いている。あまり間を空けると忘れられそうな気もして・・・。

人間、いずれは何らかの原因で死ぬのだが、どうせ死ぬなら、私は癌で死にたい。ただし、欲深い性格なので百歳まで生きてからにしてくれ、と死に神にお願いはしている。ネパールの地震の死者は5000人を超えそうだ。地震や津波で死ぬのは苦しそうだし、死体が見つからないというのもなんだか最期の示しが付かない。交通事故も準備不足で逝かねばならないから、できれば願い下げにしたい。ピンピンコロリで眠るように、というのが理想だと世間で言うが、これだとて願って適うものではなかろう。

その点、癌死で逝ける確率は高い。なにしろ癌の王様である膵臓がん細胞の保持者である(たぶんまだ体内にはあるはずだと思っている)。がん全体なら3人に1人は当たりくじをひくことができる。ただ、中には簡単に治ってしまう癌もあるから、それに当たると災難だ。がんで死ぬつもりが、老衰で寝たきりとなりかねない。

我々団塊の世代がこれから後期高齢者の仲間入りをするようになる。病院も老衰の患者を入院させておくだけの余裕がない。何しろ厚労省が許さない。在宅医療を積極的に導入しようとしているのは、大量の生きていては困る老人を自宅で死んでもらうためだろうと、正確に”邪推”している。

我々が死ぬときには病院も足りなくなり、葬儀場も競争で抽選となり、坊主も手配できないに違いない。もちろん墓も足りない。ホスピスで死ねれば最高の贅沢だが、多くは「在宅介護」「在宅医療」という名の孤独死、のたれ死にになるに違いない。

癌なら先の予定が立つ。これは大事なことです。自分の最期の始末を準備できる。葬儀や墓の手配も済ませておける。しかし、寝たきりや認知症で徘徊されたら、介護している家族は堪らない。それが5年、10年続いたら、最初は優しかった子どもや伴侶も、そのうちに叩いたりつねったり、首を絞めたりするようになるのは致し方ないと思うのだが、どうだろうか。家族も、「先が見えない」弱っていく老人は、持て余すだけである。

しかし、末期癌で余命が3か月ともなれば、「あと少しの辛抱だから」と家族も優しい顔で接してくれようというものだ。病院だって同じだ。大学病院などの急性期病院は、症状が安定した患者を長く入院させておけない。赤字になるからだ。しかし、癌患者であれば「ま、近いうちにお亡くなりになるのだから」と主治医も病院の経営者に対して無理を言いやすい。実際そうした現実がある。そうした事情を熟知しているがん患者は、それをうまく利用している。

つまり、何歳になっても「癌の患者である」ならば、医療施設もそれなりの対応をしてくれる(可能性が高い)。とくに膵臓がんなら、なにしろ万が一にも長生きしそうにないから奴らも親切を施しやすい。しかし、そうでない「ただの老衰」の受け入れ先は、今後ますます厳しくなる。ピンピンコロリにしくじって、寝たきりで死にそうにない老人になるのは最悪だ。貯金や試算が数億円もあればまた事情が違うだろうが、縁のない話だし。

死ぬなら癌がよい。でも痛みは勘弁、最高の医療で取り除いて欲しいね。


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