生きているのじゃなく、生かされている

ゴーギャン:我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
若きにもよらず、強きにもよらず、思い懸けぬは死期(しご)なり。
今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。
(徒然草第137段)
明日が今日と同じように続くはずだと、誰もが疑ってはいないけれど、本当のところ、明日が今日と同じであるなんてことは決まったことじゃないんだ。誰にとっても死は目の前にあるということでは、年齢にも社会的地位にもよらない、当たり前のことだ。
以下は、膵臓がんの手術後初めて食事を摂ったときの感想である。
まずはジュースから始めた。ところが、飲んで5分もするとトイレに走る込む状態だ。そしてたった今体内に入れたものを全部流し出してしまう。すい臓を摘出した患者のほとんどがこうした症状を持つという。整腸剤と食事量をコントロールしながら、徐々に食事に慣れていくしかないようだ。
昼食から3分粥。まだだめだ。トイレに二回駆け込んでみんな流れてしまった。痛みも激しかった。
しかし、人間の体って精巧で緻密にできていることに感心する。
私がまずジュースを飲むと、しばらくして『雷様』が活躍し始める。ガスが腸をごろごろという音と立てて駆け巡るのがわかる。角に突き当たり、隘路を押し込むように潜り抜け、おなかの中を二回転する。その間激しい痛みを伴うこともある。
手術によって失われた機能を探し出し、自己修復をしているようにも感じられる。実際、腸の位置なども微妙にずれているのだろうから、ガスを通して『座りのいい位置』を探すのは理にかなった方法かもしれない。
夕食も3分粥で同じ。今度はさらに時間をかけてゆっくりと磨り潰すようにして飲み込んでいく。いいぞ、今度は痛みも「雷神」も出てこない。
私の体には生物の全歴史が畳み込まれている。
生きているのじゃなく、生かされているのだと強く感じる。
さてこの命、どのように使おうか。