「膵臓がん患者と家族の集い」のご案内


【日 時】2025年11月29日(土) 13:15~16:00(開場:13:00)
【会 場】大田区立消費者生活センター 2階大集会室
【参加費】1,000円
【対 象】膵臓がん患者とその家族、ご遺族
【定 員】60名
【内 容】第1部:「温熱療法の最前線ー理事長が語るハイパーサーミアの治療効果」
         古倉 聴 京都先端科学大学教授 (社)日本ハイパーサーミア学会理事長
     第2部:患者・家族、ご遺族の交流会

申込締切は11月25日(火)19:00までです。
詳しくはオフィシャルサイトで


「高額療養費は『空気』ではなく『命綱』だ」- 膵臓がん患者の私が、”空気”発言の炎上と政治の動向に伝えたい危機感

なぜ「空気」という言葉が、私たちの胸に突き刺さったのか

先日、X(旧Twitter)のタイムラインが、ある言葉をめぐって大きく揺れた。

「高額療養費制度が『空気』のようになっている」

ある新聞記事に掲載された専門家の発言がきっかけでした。その趣旨は、「かつての償還払い(一度全額を支払い、後で差額が戻る)と違い、今は窓口での支払いが上限額までになったため、患者自身が高額な医療を受けている実感を持ちにくくなった」という、医療費増大への警鐘だったのかもしれません。

しかし、この「空気」という一言は、私を含め、今まさにこの制度に支えられて治療を続けている多くの患者や家族の胸に、深く突き刺さりました。

なぜ、私たちはこれほど強く反発したのか。

なぜ、SNSには「ふざけるな」「現実が見えていない」「命懸けだ」という怒りや悲しみの声が溢れたのか。

結論から申し上げます。

私たちにとって高額療養費制度は、「空気」のような無意識でタダ同然のものでは断じてないからです。

それは、毎月の支払日にその存在を強く意識し、祈るような気持ちで掴んでいる、一本の細く、しかし確実な「命綱」だからです。

私は、膵臓がんの患者です。

がんサバイバーとして、この制度がなければ、今こうして文章を書いている私の命はなかったかもしれない。

だからこそ、当事者として伝えなければならない実態があります。「炎上」で終わらせてはいけない、私たちの生活と命、そしてこの国の医療制度の根幹に関わる、大切な議論のために筆を執りました。

私の体験談:膵臓がんと高額療養費制度という「命綱」

「膵臓がんの可能性が極めて高いです」

医師から告知を受けたあの日、頭の中に浮かんだのは、家族のこと、仕事のこと、そして、これから始まるであろう過酷な治療のこと。死への恐怖はまだ実感がなかったが、私の頭を支配したのは、あまりにも生々しい「お金」への不安でした。

膵臓がんの治療は、手術、抗がん剤治療、放射線治療と、複数を組み合わせることも多く、長期化しやすい。当然、医療費は膨大になります。

私の場合も、手術と、その後の長期にわたる抗がん剤治療が始まりました。毎月、病院から提示される医療費の明細。そこには、私が個人では到底支払いきれないような金額が並んでいました。「3割負担」であっても、です。

抗がん剤は一回数万円、数十万円とかかります。それが毎月、あるいは数週間ごと。治療の影響で思うように働くこともできず、収入は減る一方。それなのに、医療費という巨大な支出だけが、容赦なく襲いかかってくる。

「治療を、続けられるだろうか」

「家族に、どれだけの負担をかけてしまうのか」

「お金がないせいで、生きることを諦めなければならないのか」

そんな絶望の淵で、私を繋ぎ止めてくれたのが「高額療養費制度」でした。

この制度があったから、私の自己負担額は、所得区分に応じた「上限額」で済みました。もちろん、その「上限額」ですら、決して楽な金額ではありません。毎月数万円(所得によっては十数万円)が確実に消えていくのです。治療が続く限り、何年も、です。

「空気」どころではありませんでした。

毎月の支払日、私は「限度額適用認定証」を握りしめ、自分が今、どれだけ高額な医療を受けているかを痛感し、そして、この制度のおかげで「今月も治療が続けられた」「今月も生き延びられた」と、文字通り「命拾い」したことを実感していました。

もし、この制度がなかったら?

考えるだに恐ろしいですが、私は早い段階で治療の継続をためらったでしょう。もともと無いに等しかった貯金はあっという間に底を尽き、家族を犠牲にしてまで治療を続ける選択ができたかどうか。恐らく、できなかった。

高額療養費制度は、私にとって「当たり前」などでは決してない。それは、暗く冷たい深海で、かろうじて呼吸をさせてくれる唯一の「命綱」だったのです。

「空気」と「命綱」- 専門家と患者の間に横たわる”深刻なズレ”

今回の「空気」発言が炎上したのは、私と同じような思いを抱える患者や家族が、それだけ多くいたという証左です。

SNSには、堰を切ったように当事者の声が溢れました。

「空気?毎月の上限額8万円を払うために、食費切り詰めてるのに?」

「難病で毎月上限。これがなかったらとっくに死んでる。命綱を空気とか言わないでほしい」

「『実感がない』んじゃなくて、『実感がありすぎる』から怖いんだ。これ以上負担が増えたら治療を諦めるしかない」

「制度に甘えてるみたいに言うな。私たちは必死で働いて保険料を払い、それでも足りない分を制度に助けてもらってるだけだ」

これらの声は、決して「制度にタダ乗りしている」人々の声ではありません。社会保障の担い手として保険料を支払い、それでも病という不運に見舞われ、なけなしのお金で治療費を払いながら、必死で社会に踏みとどまろうとしている人々の悲痛な叫びです。

記事の発言の意図は、恐らく「医療費の増大」というマクロな視点に立ったものでしょう。「自分が受けている医療の価値(金額)を意識し、賢い患者になるべき」という啓発的な意味合いもあったのかもしれません。

しかし、その言葉は、私たち患者が置かれたミクロな現実と、あまりにもかけ離れていました。

私たちは「空気」のように無意識に息をしているのではありません。

高額な医療費という「荒波」の中で、いつ切れるか分からない「命綱」に必死にしがみつき、息をしているのです。

私たち当事者は、誰よりも医療費の「重み」を実感しています。だからこそ、「これ以上、負担を増やさないでくれ」と願っている。その切実な実感を「実感がない(=空気)」と断じられたことが、何よりも悲しく、許せなかったのです。

私たちの「命綱」が政治に翻弄されている現実

そして、この「空気」という言葉が私たちを一層不安にさせるのは、まさに今、この「命綱」そのものが政治の都合によって細くされようとしているからです。

高額療養費制度は、日本国憲法第25条の「生存権」に基づき、誰もがお金のあるなしに関わらず必要な医療を受けられるようにするための、国民皆保険制度の根幹をなすセーフティネットです。

しかし、この「命綱」は、決して盤石ではありません。

例えば、有力な政治家たちは、選挙の際には決まって「暮らしを守る」「国民の負担を軽減する」と力強く訴えます。私たちはその言葉に、一縷の望みを託します。

しかし、いざ政権運営が始まると、「財源の確保」「制度の持続可能性」といった言葉を盾に、私たち患者の負担を増やす議論が何度も、何度も浮上してくるのです。

事実、記憶に新しい2025年。政府は「次元の異なる少子化対策」の財源確保などを理由に、この高額療養費制度の限度額引き上げ(=患者負担増)を本気で推し進めようとしました。

もし、あの案が通っていたら、私のようながん患者や難病患者は、治療の継続を断念せざるを得ない状況に追い込まれていたかもしれません。

あの時、何が起こったか。

「これ以上は無理だ」「命を奪う気か」――。

がん患者団体や難病患者団体が中心となり、当事者が必死の抗議の声を上げました。その声が世論を動かし、メディアも大きく報じ、最終的に政府は負担増案を「事実上の白紙撤回」に追い込むことになりました。

これは、私たちの「命綱」が、政治の都合でいかに簡単に議論の俎上に載せられ、危険にさらされているかを示す、象徴的な出来事でした。

一度は撤回されました。しかし、「財源がない」という根本的な問題が解決しない限り、この負担増の議論は、形を変えて今後も必ず蒸し返されるでしょう。

選挙の時の「負担軽減」という言葉と、政権運営が始まってからの「負担増」の議論。この乖離こそが、私たちの不安の源です。私たちの命は、政治に翻弄され続けています。

「当たり前」ではなく、「声を上げて守るべきもの」として

今回、私たちが「空気」という言葉に強く抗議したのは、決して制度への感謝がないからではありません。

逆です。

制度のありがたみを骨身にしみて理解し、これがなければ生きていけないと知っているからこそ、その「命綱」を「空気」などという軽い言葉で扱われることに、強い怒りと危機感を覚えたのです。

「患者も医療費を意識しろ」という論調が、「患者は実感がないのだから、多少の負担増は仕方ない」という政治的な議論を後押ししてしまう。私たちは、その「空気」が醸成されることを何よりも恐れています。

この記事を読んでくださった方へ。

もしあなたが今、健康だとしても、高額療養費制度は決して「他人事」ではありません。病気やケガは、明日、あなたやあなたの大切な家族の身に降りかかるかもしれないのです。

その時、あなたを守ってくれるのが、この「命綱」です。

この制度は、決して「当たり前」にそこにあるものではありません。

2025年の負担増の議論がそうであったように、私たちが常に関心を持ち続け、おかしいことには「おかしい」と声を上げなければ、簡単に奪われてしまうものなのです。

制度に感謝すること。それを「当たり前」だと思わないこと。

そして何より、その動向に常に危機感を持ち、当事者として、あるいは未来の当事者として、政治の動きに「声を上げ続ける」こと。

この「命綱」は、天から与えられた「空気」ではなく、私たち自身が関心を持ち、社会全体で議論し、次の世代へと繋いでいくために「守り抜くべきもの」なのだと、私は強く訴えたいと思います。


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