「ドナルド」と呼べば救われるのか:憲法9条という拒絶の美学と、抱きつき総理の無能

朝、モーツァルトの『フィガロの結婚』を聴きながら、クレイジー・サラダの野菜をちぎる。

新鮮なレタスの弾ける音は、テレビから流れる中東の爆発音よりも、ずっと私には切実な現実に聞こえる。

米イスラエルがイランへ先制攻撃を仕掛け、世界が再び「どちらが正義か」という二元論の泥沼に足を取られている。

その喧騒の中で、日本のトップである女性政治家が、トランプ氏を「ドナルド」とファーストネームで呼ぶ親密さを演出し、強者に抱きついている。

その姿は、まるで効きもしない抗がん剤のパンフレットを大事そうに抱え、製薬会社の営業マンに媚を売る医師のようだ。

今この瞬間も、私たちは憲法第9条という「拒絶の盾」を構えることで、無謀な火遊び(ホルムズ海峡への派遣)へと駆り立てる圧力を辛うじて拒み続けている。しかし彼女たちは、その現在進行形の防壁を、名前を呼ぶだけの安っぽい外交で脆くも崩し去ろうとしているのだ。

「闘いながら拒絶する」ための憲法9条:ホルムズ海峡で起きたこと

世間では、憲法第9条を「現実逃避の象徴」だと揶揄する声がある。

だが、私はそうは思わない。

自衛隊のホルムズ海峡派遣の要請に対して、この「9条」というデッドロックがあったからこそ、日本は理不尽な要求を拒絶することができた。高市総理も断らざるを得なかったというのがより真実に近いが。

吉田秀和が求めた「闘いながら拒絶すること」。

憲法第9条は、まさにそのための美学だったのではないか。

「行きたくても、このルールがあるから行けない」という論理的な拒絶は、感情的な反発よりも遥かに強固な防壁になる。

それは、医学界の巨大な権威(ガイドライン)を前にして、「私の身体には合わない」と毅然とDPP-4阻害薬を断った私の選択と同じだ。

自衛隊を戦地に送らないという結果は、消極的な平和主義ではなく、自国の主体性を守り抜くための「戦略的拒絶」となるのだ。

「ドナルド」という名の精神的寄生:名前を呼ぶだけの無能な様

トランプ氏を「ドナルド」と呼ぶ。

一国の総理が、他国のリーダーに抱きつき、ファーストネームで呼ぶことで「特別な関係」を誇示しようとする姿には、吐き気を催すほどの浅ましさを感じる

これは親密さの証明ではない。

自分の頭で問いを立てることができず、巨大な力に同化することでしか自分の存在を証明できない「無能」の告白だ。

まるで、有名大学の教授の名前を出せば自分の論文の価値が上がると信じている、志の低い研究者のようだ。

自分の名前(主体性)で語ることができないから、相手の名前を呼ぶことに執着する。

その「抱きつき」の熱量が増せば増すほど、日本の外交はトランプ氏という予測不能な「不条理」に引きずり回されることになる。

依存は信頼ではない。それは、自分の人生の舵を他人に渡し、成りゆきに身を任せることさえ放棄した、自覚なき絶望である。

焼かれる国際法:先制攻撃という「殺人」と、イランの正当防衛

ここで、中東の火に目を向けてみよう。

世論は「テロへの対抗」というエビデンスを振りかざすが、事実はもっと単純で冷徹だ。

イスラエルによるイランへの先制攻撃は、明白な国際法違反である。イランの核開発を阻止するためだと言うが、昨年にバンカーバスター爆弾で、地下深くにあるイランの核施設を「完全に破壊した」と宣言したのはトランプ氏ではなかったか。

「イランではデモ隊に対して虐殺をしている」。本当だとしても、それはイランの国内問題であり、コミットするのは「内政干渉」である。

たとえどのような「正義」を並べ立てようとも、最初に手を出した瞬間に、それは自衛の域を超えた侵略へと変質する。

対して、イランの反撃は、国際法が認める「自衛権の行使」に他ならない。

がん治療に例えるなら、まだ悪性とも決まっていない細胞を「将来の恐怖」のために健康な組織ごと焼き払うのがイスラエルの手法だ。

そして、その過剰な攻撃によって破壊された身体が、生き延びるために起こす免疫反応がイランの反撃である。

この攻守の逆転を無視し、「イスラエルを守れ」と唱和する世界。

そこには、中島梓が最期に書き残そうとした「生の実感」も、吉田秀和が愛した「音楽の調和」も存在しない。

ただ、力を持つ者が「正義」というラベルを貼り替え、少数者を圧殺する論理だけが支配している。

明日から実践できるスモールステップ

私たちが、名前を呼ぶだけの「抱きつき外交」や、法を無視した「先制攻撃」の物語に加担しないために。

自分の足で立ち、静かに拒絶するための作法を。

  1. 「親密さ」の演出を疑う:ファーストネームで呼び合う政治家を見たら、「自分の言葉を持っていないのだな」と冷めた目で眺めてみる。
  2. 「憲法第9条」を盾として再評価する:それを「理想」ではなく、理不尽な要求を断るための「実利的な拒絶ツール」として捉え直す。
  3. 「最初の一撃」の責任を問う:どんなに派手な反撃が報じられても、必ず「最初に誰が法を破ったか」に立ち返ってニュースを読み解く。

モーツァルトの旋律が終わり、静寂が訪れるとき。

「ドナルド」という名前も、ミサイルの閃光も、すべては虚空へと消えてゆく。

あとに残るのは、自分の手でちぎったサラダの味と、誰にも魂を売り渡さなかった自分自身の誇りだけだ。


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