iPad狂想曲

Googleリーダーに登録してあるパソコン関係の記事は、このごろiPad一色の様相である。しかし、私にはiPadの使い道が分からない。いや、新しいデジタル機器は嫌いな方ではないし、ポメラも発売されたら早速買って使っている。しかしiPadのどこが魅力的なのかさっぱり理解できない。理解できないから買わない。高すぎるということもあるが。

要するにiPadは情報を消費するための機械である。これで何か生産的な作業をするようにはできていない。ブログの記事を書けなくはないが、画面上のキーボードでは押した感覚がないだろう。内田樹がiPadでブログを書き始めたそうだが、脱字や不必要なスペースがはいっていて読みづらい。本を読むには重すぎる。軽い軽いと宣伝するが1kg以下のノートパソコンが出回っている時代に680gは軽いとは言えまい。本を数冊持てば結構な重量になるのだから、いくら入れようがデジタルでは重さは増えないからというのも、一度に読むのは一冊なのだから納得させられるものではない。それに私はまだデジタル書籍にはなじめない。線が引けないではないか。書き込みもできやしない。確かにコピーしたり検索するには重宝かもしれないが、さっさとコピーした情報は得てして記憶に残っていないものだ。

かくいう私も携帯電話はスマートフォンに替えた。スマートフォンに替えたら日常の情報の管理が格段に便利になった。BlackBerryにそっくりのdocomoのSC-01Bにした。タッチパネル&QWERTYキーを搭載しているのがこの機種にした理由である。フルキーボードがついているので入力が格段に楽だ。

これまでインターネット上の情報の収集に使ってきたOneNoteと紙copiのデータを全てEvernoteに移行した。過去のがん関連の貴重な情報がすべて詰まっている。そしてSC-01Bにもモバイル版のEvernoteをインストールした。これでどこにいても情報にアクセスできるようになった。ついでにメールもGmailに移行した。過去5年分のメールをすべてGmailに転送しても5Gバイトであり、7Gの無料スペースのあるGmailでは余裕である。GmailはマイクロソフトのExchangeサーバーに対応しており、この5Gものメールが必要なときにいつでもスマートフォンで検索できるからすごい。

青空文庫の宮沢賢治のものなどもスマートフォンで読んだりしている。今は『銀河鉄道の夜』や『武蔵野』『高瀬舟』『貧乏物語』が私のスマートフォンに入っている。ちょっとしたすきまの時間に読むには手頃であり、iPadでなければならないということもない。

GoogleカレンダーとRemember the Milkを連携させて、Todo管理を任せている。これでやるべきことの管理がすっかり安心できるようになった。今やること・いつかはやりたいことなどをすべてこのシステムに預けてしまえば、リマインダーが知らせてくれるまでは忘れていられる。SugarSyncDropBoxもインストールして自宅と会社のPCのデータをシンクロさせている。さらにスマートフォンにもモバイル版を入れたから、大量のデータがいつでも見ることができる環境になった。

頭は記憶する場所ではなく、問題を解く場所である。こうしてパソコンがなくても同じ情報にいつでもアクセスできる状態にしたが、さてこれでばりばりと仕事をしようというのではない。

ぼんやりの時間 (岩波新書)

やるべきことを能率よくさっさと片付けて、空いた時間をたくさん作ろうというのである。空いた時間はぼんやりとして過ごそうというのである。辰濃和男が『ぼんやりの時間 (岩波新書)
』という本を出している。人生におけるぼんやりとする時間の有用性を説いているのだが、中野孝次も『閑のある生き方』で同じことを言っていた。放浪の詩人高木護は、こどもに「お父さん、うちの財産はなんだろうねぇ」と聞かれて、「何もない。しかし何もないでは子供たちも困るだろう」と考えて高木家の財産目録を作った。

  • 何者にも拘束されない自由
  • 一日、ぼんやりしていられること
  • 低収入で暮らせる体
  • 自然たちと仲良くなれること
  • 老い、あるいは持病

がむしゃらに働くことが美徳だという我々の世代が、こんなおかしな日本を作ってしまったのではないかという根本的な疑問に問いかけるためにも、ここらでちょっと立ち止まるのも悪くはないに違いない。

高木護にはこんな言葉もある。「これからどこへ行こうとか、どこまで行こうとか、目的や目標を作るな」「ゆっくり歩いても、急いで歩いても、一日は一日である。ならば、一日をゆっくり歩いて行け」味のある言葉だ。ぼんやりしているときには心が解放されている。心が解放されていれば、足元の自然が見えてくる。人間は生かされているのだということが分かってくる。

一日ぼんやりと自然と仲良く、粗末な暮らしでもよいという。老いも病気も財産だという考えは、ちょっと気分が悪くても病院にかかろうとする現在の老人を痛烈に当て付けている。「今は将来の準備期間」という考え方が日本人には染みついている。勉強して一流の大学に入り、大企業に就職し、定年後はほどほどの楽な暮らしがしたい。そのための「今は準備期間である」というのだ。しかし、それではいつまで経っても自分の時間は持てやしない。今日は明日のためにあるのではなく、今日という「いまここに」ある時間をあるがままに使わないで、どうして満足できる人生と言えようか。がんを治したい! 切実な思いに違いない。だが、治って何をするんですか? 「今」はがんを治すための準備期間にしか過ぎないのですか?

治ったら、妻にも優しくして子供たちとも語らいの時間をたっぷりと取って、やりたくてもやれなかった趣味を始めて、旅行や気のおけない友人たちとゆっくりと語らって・・・・。

それを今やればよいではないか。がんであろうがなかろうが、今を十分に生きるということではないだろうか。と、良寛も西行も鴨長明も、セネカも同じことを言っている。彼らのように世を捨てることもままならないから、せめてやるべきことをデジタルの助けを借りて能率よくさっさと片付け、のんびりとした時間をたっぷりと作ろうという魂胆であるが、こうしてブログを書いていることはさて自分に必要なのかどうか、と考えだすときりがないからやめておく。


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