物理学者・戸塚洋二 がんを見つめる

31日(土)15時から1時間のNHKヒューマンドキュメンタリーで、このブログでも先に書かせていただいた戸塚洋二さんのことが取り上げられた。戸塚さんのブログの内容に沿っての番組だったが、佐々木閑氏が対談のテープを残していて、肉声を聞くこともできた。

迫り来る死への恐怖に、佐々木閑氏との対談では『科学者として、死んだときどのようになるのか、その観察結果を報告できないのが残念だ』との趣旨に発言をされていた。がんのCT写真をデジカメで撮影してその大きさを測定し、時系列のグラフにして、抗がん剤の効果を判定しようとしていたのは、「実験屋の悲しい性です」という。しかし、ちょっと疑問なのは、CTは輪切りにして断面を撮影するわけで、輪切りにする位置が毎回微妙に違えば、腫瘍の大きさ(断面)も正確には撮影できないのではないかという疑問だ。そのあたりはどのように解決したのだろうか。

死ぬときは全ての人が大往生なのです。「壮絶な死」などいうものはない。自然現象であり、美しくもないし醜くもない。死ぬ瞬間は脳には大量のドーパミンが放出されるらしいので、外見は苦しそうにしていても本人はほとんど苦しむことはないという。
死ぬ瞬間は、トンネルの向こうに光が見える、すばらしい花園があり、とても幸せな気分になる。臨死体験をした人はそのように言う。

人はいずれ「無」に帰る。もとの宇宙を構成していた原子にばらばらになっていく。そのときにはこの「自分」は存在しないのであるから、存在しない自分は、自分が「無」になったことを知ることはできない。古代ギリシャの哲学者エピクロスは、

死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもない。なぜかといえば、われわれが存在する限り、死は現に存在せず、死が現に存在するときには、もはやわれわれは存在しないからである。

と言っている。なるほどと思うが、いやそれでも死を恐れるのはどうしてか。それは生きている間に「死」を想像することができて、しかも死んだあとに自分が死んだということを認識できない。つまり、睡眠から目覚めたあとでは、自分がこの間寝ていたということを認識することができるが、自分が死んだということを自分では認識できない、ここに死の恐怖があるのではないか。これは、睡眠からはいずれ目覚めるが、死から目覚めることはないということと同じ意味になる。エピクロスのいうことは、逆に死を恐怖する理由になっているのではないか。 いずれもう少し考えてみよう。

戸塚さんは、ニュートリノに質量があることを発見して、世界を驚かした。ニュートリノに質量があるかないかは、この宇宙の未来を左右する。この宇宙は「無」から誕生し(ビッグバン)、それ以来膨張を続けているのであるが、宇宙の全質量がある値以上であればいつの日か収縮に転じる。これはアインシュタインの相対性理論から出てくる結論である。そしてニュートリノに質量があれば、宇宙の全質量はいずれ収縮する可能性がある。ということは、収縮してまた「無」に帰るということになる。われわれは「無」から「無」にいたる時間の間の、本の一瞬にたまたま生を受けているに過ぎない。戸塚洋二さんが成し遂げようとしたことは、このようなことなのだ。

だからどうした、と言ってしまえば身も蓋もないが、がん患者であろうがなかろうが、人は体力の続く限りやりたいことをやるのが、避けられない死、無に帰る死を穏やかに迎える秘訣なのかもしれない。

がんと闘った科学者の記録 がんと闘った科学者の記録
戸塚 洋二 立花 隆

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