『哲学者とオオカミ』がん患者&生&死

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン
私たちの中には「サル」がいる。「サル」とは、世界は自分に役立つかどうかの尺度で測る傾向の具現化である。「サル」にとって生きるとは、世界をコスト・利益分析によって評価し、自分の生活、愛、そして死までも定量化し、計算できると見なす傾向である。「サル」にとって他者との関係はただひとつの原則に則って計算される。つまり、「おまえは私のために何ができるのか、それをしてもらうにはいくら払えばよいのか」という原則である。

「サル」のこのような特質は群れ生活を始めることで獲得した。群れ生活は、単独生活では決して得られない可能性をもたらすとともに、単独生活では要求されないような新しい必要事項をももたらす。群れのメンバーを観察して識別し、誰が自分より上位か、下位は誰なのかを記憶する能力が要るのだ。この判断を誤ると悲惨な結果が待っているから、必然的にこの能力は発達する。この能力はやがて群れの仲間を操作し利用することで、自分のコストはわずかしかかけずに群れのあらゆる利益を享受する可能性があることを見出す。それは相手を騙す能力が基礎になる。仲間を操作するのに手っ取り早い方法は相手を騙すことであるからだ。同様に、仲間から自分は騙されているのではないかということに気付く能力も発達する。こうして自分は騙されずに相手を騙す必要性に駆られ、結果的に「サル」の知能はエスカレートする。

「サル」には友人はいない。いるのは陰謀の共犯者だけである。仲間うちで徒党を組むことで、群れの利益を徒党の力を借りて自分のものにするためである。自分自身がこの徒党の企みの犠牲者とならないためには、常に自分からも陰謀を企まなくてはならない。

陰謀と騙しは、類人猿や猿が持つ社会的知能の核である。大型の類人猿、ホモ・サピエンスにおいてこの社会的知能は最高点に達した。

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以上が、哲学者マーク・ローランズが『哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン
』の前半部において主張する点である。ローランズが偶然に「96%のオオカミの子供売ります」の新聞広告を見て車に飛び乗って子オオカミを買いに走ったことから物語は始まる。ブレニンと名付けられたオオカミと新進の哲学者との共同生活である。しかし哲学書でもオオカミの飼育記録でもない。ブレニンと暮らすことにより、人間とは何か、愛とは?死とは何かを、ブレニンとの生活を通して考察した記録である。そしてブレニンはがんによって死ぬ。

この本を読むことによって私のオオカミに対する既成観念は大いに変更を余儀なくされた。また、人間について、死についての観念も、こちらは少しばかりではあるが、変更を迫られた。

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謀略と騙しの応酬において悪意が主要な傾向となったときには、サルは自分の仲間に対して残酷に振る舞えるのである。それゆえに、サルの中で最初に形成されるのは正義感である。なぜなら、もしも相手のサルが謝罪やなだめる素振りをしてもなお執拗な攻撃を止めなく、しかもこうした事態が頻繁に起きるならば、群れはやがて崩壊してしまうだろうからである。こうした正義を為すためには理由が必要であり、証拠がいる。攻撃をするには権限が必要である。真に卑劣な動物だけが、理由・証拠・正当化・権限という概念を必要とするのである。サルは悪意に満ちていて、仲直りの方法に無関心であればあるほど、正義感を必要とする。サルだけが唯一、道徳的な動物となる必要があるほどに不愉快な動物である。徳に大型霊長類であるホモ・サピエンスにおいてこの傾向は一層顕著である。

子オオカミのブレニンと暮らしたローランズは、ブレニンが死ぬまでのオオカミとサル(自分自身)を比較してこのような人間に対する見方をするようになった。しかし、こうした思想は老子においてすでに見ることができる。

孔子が老子に会いに行ったことがあるそうだ。孔子は全世間に知れ渡っていた。老子は年老いて無名だった。(老子とは老いぼれという意味だから)孔子のもとには賢者が助言を受けにやってきたものだ。彼は当時の中国ではもっとも賢い人間だった。しかし孔子は、自分は他人の役には立つが彼自身の役にはたたないと気付いた。孔子は自分を助けることのできる人間を捜すようにと弟子たちを使って全国に捜索を始めた。ある弟子が、”おいぼれ”と呼ばれている一人の老人が目指す人物かもしれないと伝えてきた。

孔子は自分から出向いて老子に会いに行った。老子にあった彼はピントきた。老子の大変な理解力、知的完璧性、論理的慧眼、彼には何かがあった。しかし孔子にはそれをはっきりとはつかみきれなかった。

孔子が尋ねた。「道徳についてのご意見は? 善き品格を培うにはどうしたらいいとお考えですか?」

老子は高々と笑ってこう答えた。「もしあんたが不道徳であったとすると、そのときに初めて道徳などという問題が起きてくる。あんたがなんの品格もなかったら、そのとき初めてあんたは品格のことなどを考える。品格のある人間は、そもそも品格などというものが存在するという事実さえ忘れているのだ。道徳のある人間は”道徳”という言葉が何を意味するのか知りはしない。だからして、たわけたことは言うでない! それに、何かを培おうなんてことはしなさるな。ただ、自然でいるがいい。」と一喝したそうだ。

老子の発するすさまじいエネルギーに、孔子は恐ろしくなって震えだして退散した。外で待っていた孔子の弟子たちは我が目を疑った。皇帝の前でさえびくびくしたことのない孔子が、震えて、冷や汗をにじませて出てきたからだ。孔子は弟子たちに言った。「この男は危険だ。この男は龍だ。彼がどのように歩くのか誰も知らない。彼がどのように生きるかを誰も知らない。決して彼に近づいてはならないぞ」

オオカミは道徳、品格、正義、そんなものは問題にしない。それが問題になるのはサルだけである。老子は龍と言うよりも「オオカミ」である。

ここはやはり加島祥造の「タオ-老子」を持ってこなければならないだろう。

美しいと汚いは、
別々にあるんじゃあない。
美しいものは、
汚いものがあるから
美しいと呼ばれるんだ。
善悪だってそうさ。
善は、
悪があるから、
善と呼ばれるんだ。
(タオ-老子 第二章)

 

じっさい、タオが
堕落し始めたんで、人間は
仁義なんてものを説きはじめたのだ。
人間愛とか正義とかいうものが
必要になったってわけだ。
なまじ情報や知識を発達させたせいで
大嘘や偽善や詐欺がはびこった。

道徳は孝行息子を褒めるがね、
ダメ親父が家族を放り出して
道楽するから、
孝行息子がでるのさ。
(第十八章)

長くなったので、次回へ続く、とします。


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