未熟の晩鐘

未熟の晩鐘 今週は小椋佳の『未熟の晩鐘』を繰り返し聴いている。小椋佳自身が「ジジクサイ」と言った曲集だが、現在の私には、たぶんがん患者の多くにも、心に触れる歌詞ではないだろうか。もちろん編曲もよい。

未熟の晩鐘

未熟の晩鐘

小椋佳
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「未熟の晩鐘」ではこう歌っている。

振舞う それぞれに 落日の影 否めず
残照か 薄暮か 鐘の音 鳴り渡る
遥か 地平に 彷徨う姿
悟りより 迷いを 背負う道の果て

命の 幽(かそけ)さを 欲望の影 認めず
誘(いざな)いか あがきか 晩鐘の 鳴りやまず
未だ 教えを 説く期 熟さず
悟りとは 無縁の 未熟を愉しむ

老年になって、あるいはがん患者になって命の行き着く先が見えてきたが、悟りにはまだ遠く、他人に教えを説くには己の未熟さが、本当に身に染みる。

「落日、燃え」では

西の空を 赤く焦がし ことさら 輝く あの落日
若い日なら 顔を上げて  明日の あこがれ 映したもの
いまはどこか 舞い散る花 浴びるときの 感傷のように

命一つ 尽きる前の 名残の祭りと見る
記憶のみに 心埋めず 残りの日数に 指を折らず

切り株から 芽吹く命 ひこばえたち 慈しむように

若いときなら落日を見て、明日への希望を思い描いたが、今は命の尽きる前の名残の輝きと感じる。

死を見つめる心 (講談社文庫)

死を見つめる心 (講談社文庫)

岸本 英夫
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死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1) 宗教学者であり、アメリカで黒色腫(メラノーマ)を宣告されて余命6ヶ月と言われた岸本英夫氏は『死を見つめる心 』で、その状態を「生命飢餓状態」と表現する。死後の世界も極楽浄土の信じていない合理的精神の持ち主だと、自分でもはっきりと言う宗教学者である。その岸本氏は、「死」という別の実体があって、これが生命に置き換わるのでない。ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことが死だと考える。「闇」というものは存在しない。光がなくなった状態が「闇」である。我々人間は、無いもの=「無」を認識することはできないのだと。だとすれば、今与えられている「いのち」を精一杯生きること、死が近づいても一日々々の重要性には変わりがないはずだと思う。

そして「あいつは手負いの猪だ」といわれるくらいに、がむしゃらに仕事に邁進する。それも残された日々をよりよく生きる道の一つには違いない。戸塚洋二氏がそうであった。アップルのジョブズ氏もそうだろう。しかし、岸本氏は別の考え方もあると気付く。死とはつまりは「別れのとき」である。卒業で友と別れ、引っ越しで近所の人たちと別れ、仕事でも多くの出会いと別れがあった。「死」はより大がかりな「別れ」にしか過ぎないと思い至るのであった。

ただ、がむしゃらにはたらくことが、人生を充実させるゆえんとはかぎらない。それも一つの人生であろうけれども、静かにしていて、人生を味わってゆく、その味わいかたの方が、ことによると、もっと人生を本当に生きるゆえんかもしれない。・・・・もう少し、静かに人生を暮らしてゆく方が、本当の人生ではないかと考えるようになった。

健康なときは、死のことが頭をよぎることは希である。明日の計画を立て、将来の設計をして、今日はいつもそのための「準備期間」である。がんになって死が近い将来の避けられない出来事だと思いいったときには、何とか助かる方法はないか、がんに効く特効薬、サプリメントはないかと、これまた「将来の設計」だけに関心を向けて、今日を生きるということを忘れてしまう。そうすると、いつになったら「今日」を生きるんだい?  道元も良寛も、多くの先達が「今ここに」あるいのちを生きることしかない、と言っているのである。岸本氏は宗教学者であるからもちろんそのようなことはご存じであった。しかし学問として知ってはいても、自分が「生命飢餓状態」になるまでは、切実なことと考えられなかったということであろう。

命とは何か、生きるとはどういうことであるのか。こんなことを考えられるのは、ありがたいことに「がん患者の特権」なんだ。特権は上手に活用すべし、である。

もうと言い、まだと思う (小椋佳)

もう やるべき事は 何もかも やってしまった と言い
まだ やりたい事の いくつかは 果たしてないと 思う
もう 何人となく 友達が 逝ってしまった と言い
まだ より大勢の 年寄りが 元気でいると 思う

もう 隠居引退 老い仕度 身奇麗大事 と言い
まだ 残された日の 花舞台 今日が初日と 思う
もう 許せぬことの 数尽きず ただ愚痴ばかり と言い
まだこの世の末を 諦めず なお正そうと 思う


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未熟の晩鐘” に対して5件のコメントがあります。

  1. みのさん より:

    この歌は知りませんでしたが、身に沁みますね。癌患者であってもなくても。

    1. キノシタ より:

      みのさん。お久しぶり。
      本年もお互い、老体に気遣いながらぼちぼち行きましょうや。
      商品リンクを張り直しましたが、小椋佳のこのCDの曲、みんな身近に感じます。
      それだけ、小椋佳も私も歳をとったということでしょう。

      1. みのさん より:

        木下さん
        はい幸いサバイバー7年を超えることができました。中々年相応の心境に達することが出来なくて、世俗の困難に自ら飛び込んでいます。と言っても笑ってしまうような小さな事物ですが。
        先日、100歳で介護施設にいる叔母を訪ねたのですが、彼女は自分は病院にいると思っていて、病気が改善し退院することを待ち望んでいました。

        なにやら、自分の姿を見たような気がしました。

        小椋佳の歌にはいろいろ揺れ動く気持ちが表れていますが、やり残した感が強い自分は次のフレーズが特に気に入っています。
        「もう 隠居引退 老い仕度 身奇麗大事 と言い
        まだ 残された日の 花舞台 今日が初日と 思う」

        早く、木下さんの境地に至りたいと思っています。

        1. キノシタ より:

          7年ならPanCafeで完治宣言しませんか?
          マラソンや山登りの贈り物でしょうね。

          遣り残しですか? 私もあるけど、人間それが当たり前だと思うので、頑張らず、欲張らず、なるがままに生きています。

          小椋佳には、「人生は坂道」という句もありましたね。
          「もうと思えば 下り坂 まだと思えば 上り坂」

          上り坂の途中でぽっくりと逝くのもいいなぁ
          餅を喉につまらせての往生なんて 最高ではないですか。

          1. みのさん より:

            木下さん
            有難うございます。少し気が楽になります。

            来月で7年と半年になります。手術後に木下さんの記事を見て、こんな人もいると驚かされました。まさか自分が当時の木下さんと同じ立場になろうとは露とも思いませんでした。

            当時、別れを告げるつもりで合った友人は既になく、癌で厳しい病状の友人もいます。本当に分からないものです。

            何かお役に立つなら、喜んで。

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